銀座百点 号外63

 吉行淳之介の「年譜」である。筑摩書房版「新鋭文学叢書5 吉行淳之介集」による。
 安岡正太郎の年譜と見比べるとおもしろいかもしれない。

 
 大正一三年(一九二四)「四月一三日、岡山市に生れた。三歳のとき、父母とともに東京市に移住した。戸籍には、四月一日出生として届け出たため、早生れということになり昭和五年に小学校に入学。一一年、番町小学校卒業、麻布中学校に入学した。」

 
 昭和一五年(一九四〇)「六月、腸チフスに罹り、隔離病室に入れられた。七月、父エイスケ急死。病状重かったため、一〇月までその死を知らされなかった。一一月に退院して休学。翌一六年四月から、もう一度、中学五年級をやる。一七年、麻布中学校卒業、静岡高校(旧制)文科丙類に入学。翌十八年四月、進級と同時に、心臓脚気と偽って休学、東京に帰る。この頃、ようやく文学に関心を抱くようになる。」

 
 昭和一九年(一九四四)「四月、静岡高校二年級に復学。文科丙類(仏語を第一外国語とするもの)は廃止されすでに無いので、文科一組(英語を第一、独語を第二外国語とするもの)に入れられた。九月、現役兵として招集令状を受け、岡山の聯隊に入営。陸軍歩兵二等兵である。徴兵検査の結果は、甲種合格だった。入営後三日目、風邪気味なので精密検査を申し出た。軍医に気管支ゼンソクと診断され、四日目に帰郷を許された。以後、しばしばゼンソク発作に悩まされるようになる。翌二〇年春、ふたたび徴兵検査を受けさせられ、またもや甲種合格となり、以後八月一五日までいつ来るか分らぬ招集令状を待つ身となった。」

 
 昭和二〇年(一九四五)「四月、静岡高校を卒業して、東京帝国大学(その年度まで帝国が付いていた)英文科に入学。五月、空襲を受けて家財焼失。疎開をしておかなかったため、無一物となる。このとき、自作の詩約五十篇を書きつけたノートを持ち出したが、後日これらの詩はダメであることを悟った。八月、長崎の原爆で、友人久保道也、佐賀章生を失った。
「遁走」(四月)、「雪」(一一月)の二作品を書いた。これらは、翌年、友人たちと集まって作った同人雑誌『葦』の二号と一号に掲載した。」
(つづく)