銀座百点 号外64

 昭和二一年(一九四六)「都内柿ノ木坂に下宿して、大学に通った。『葦』は、翌二二年に第三号を出して終刊となったが、『世代』『新思潮』(第十五次)同人となった。窮乏して、家庭教師や、女学校の講師、雑誌社のアルバイトなどやった。翌二二年秋、大学を中退して、アルバイトをしていた新太陽社に正式に入社した。これより六年間、大衆雑誌記者をつとめた。この期間、新太陽社の第二会社の設立及び解散、さらに倒産、金主を見付けて新会社をつくり新雑誌の発行などが続いて起り、編集上の仕事から、穴埋め原稿、借金の言いわけに至るまで、あらゆることをやった。月給は低額、遅配つづきであった。
 この期間の作品が幾つかある。二二年春、「路上」(『世代』復刊号)、「星の降る夜の物語」(『新思潮』二号)。二三年秋、「藁婚式」(『文学会議』新人号)。二四年秋、「薔薇販売人」(『真実』創刊号)。この作品は、散文としての処女作といってもよいもので、十返肇氏に激励されて書き、氏の推挙で活字になった。大井広介氏に認めてもらい、嬉しかった記憶がある。」

 
 昭和二七年(一九五二)「一月、「原色の街」(『世代』一三号)が芥川賞の候補作となった。この作品は、『真実』編集部の依頼で、二五年七月に書き上げた。原稿完成と同時に、雑誌が廃刊となり、二六年秋にようやく活字となったものである。この書物(註:「吉行淳之介集」のこと)に収録の「原色の街」は、その作品と「ある脱出」(二七年『群像』一二月号)を部分及び材料として、三〇年に書き改めたものである。五月、「谷間」を、柴田錬三郎氏の推挙によって『三田文学』六月号に発表。この作品も、芥川賞候補となった。一一月、健康診断の折、左肺尖部に空洞が発見され、三世社編集部を休職となった。一二月、「祭礼の日」(『文学界』二月号)を書いた。」
(つづく)