銀座百点 号外65

 昭和二八年(一九五三)「三世社を退社し、春から夏にかけて、千葉県佐原氏の病院で療養生活を送る。ABC放送のラジオ原稿を書いて、生計を立てた。一一月、清瀬病院に入院。一二月、「治療」を『群像』新年号に発表。翌二九年一月、左肺区域切除手術を受けた。同月、「驟雨」を『文学界』二月号に発表。五月、「薔薇」を『新潮』六月号に発表。同月、原因不明の高熱とゼンソク発作のため重態になり、三カ月のあいだ烈しい咳が止まらなくなった。七月、「驟雨」で第二九回芥川賞を受けた。病状悪く、受賞式に出席することができない程であった。一〇月、清瀬病院を退院したが、常人の体力の半分も無く、この年の後半は作品がない。この年、著書二冊。『驟雨』が新潮社から、『星の降る夜の物語』が作品社から刊行になった。

 
 昭和三〇年(一九五五)「この年も依然として病臥。たまたま芥川賞を受けたので、文筆で生計を立てることに決心した。もともと文学で生計は立ちにくいと考えていたし、自分の文学的才能の型からみても生計は立ちにくいと考えていたのであるが、それより他に方法のないところに追い込まれたわけだ。であるから、無理なことをしているという考えは現在でも心の底から消えていない。
 以来、三五年の現在に至るまで、かなりの枚数、小説及び雑文の類を書いた。書きたくて書いた作品もあり、金に追われて書いたものもあり、売文業を開業している関係上断り切れずに書いたものもあり、無理に書かされて出来上ってみたら気に入った作品もある。あるいはまた、金に追われているとき、多額の報酬を約束された仕事を断ったことも、無いわけではないのである。」