銀座百点 号外67

 吉行淳之介の別の年譜を見てみる(講談社文芸文庫吉行淳之介対談集・やわらかい話」所収)。筑摩版新鋭文学叢書の年譜と見くらべると、吉行淳之介という作家がもっと違って見えてくるだろう。

 
 一九二四年(大正一三年)
 四月十三日(戸籍では四月一日の早生まれ)、岡山市桶屋町四三番地に、父・栄助(新興芸術派の作家・吉行エイスケ)、母・安久利(美容家・吉行あぐり)の長男として生まれる。昭和一〇年、妹・和子(新劇女優)、一四年、妹・理恵子(詩人・作家の吉行理恵)生まれる。大正一五年、二歳のとき父母とともの東京に移住、幼児は部屋で一人遊びする子供だった。昭和五年、番町小学校入学、一一年同校卒業、麻布中学校入学。

 
 一九四〇年(昭和一五年)一六歳
 六月、腸チフスで隔離病室に入る。七月八日、父栄助急死(狭心症)。病状が重かったので一〇月まで父の死を知らされず。一一月、退院するが、翌年四月の五年復学まで休学する。

 
 一九四一年(昭和一六年)一七歳
 十二月八日、真珠湾の大戦果を報告する校庭のスピーカーに蝟集する生徒たちを、ただ一人三階の教室の窓から見下ろしていた。「そのときの孤独の気持と、同時に孤塁を守るといった自負の気持を、私はどうしても忘れることはできない」(「戦中少数派の発言」)。

 
 一九四二年(昭和一七年)一八歳
 四月、麻布中学校卒業。静岡高等学校文科丙類入学。翌一八年、心臓脚気と偽って休学。この頃、文学に関心を抱くようになり、フランス語教授岡田弘に習作を読んでもらい、以後知遇を得る。一九年四月、二年文科甲類に復学。八月、現役兵として招集令状を受け、陸軍二等兵で岡山の聯隊に入営。三日目に気管支喘息と診断され翌日帰郷(徴兵検査は甲種合格)。以後、生涯、喘息発作に悩まされる。

 
 一九四五年(昭和二〇年)二一歳
 四月、静岡高等学校卒業、東京帝国大学文学部英文科入学。春に再度徴兵検査、また甲種合格。五月二五日の東京大空襲で家を焼失、このとき自作の詩約五〇篇を書きつけたノートを持ち出す。「後日これらの詩の大半は駄作であることを悟った」(自筆年譜)。八月の長崎の原爆で友人久保道也、佐賀章生を失う。