銀座百点 号外68

 一九四六年(昭和二一年)二二歳
 終戦と同時に計画した同人雑誌「葦」を三月に創刊(七月二号、一二月三号で終刊)。七月、創刊時に同人となった「世代」で、いいだ・もも小川徹、中村稔、日高晋、村松剛、矢牧一宏、八木柊一郎らを知る。窮乏のため家庭教師や女学校の講師をする。二二年、新太陽社でアルバイトをするが、会社からの誘いで大学を中退して正式社員となり「アンサーズ」その後、「モダン日本」の編集をする。このときの経験からだろう、締切りは生涯厳守した。七月、「新思潮」(第一四次)創刊時に同人となり嶋中鵬二、中井英夫を知る。


 一九四八年(昭和二三年)二四歳
 「二十三年までの習作に、『遁走』『雪』『餓鬼』『路上』『星の降る夜の物語』『花』『藁婚式』などがある」(自筆年譜)。この年、平林文枝を入籍。二五年一月、「真実」発表の「『薔薇販売人』は散文としての処女作といってよいもので、十返肇氏に激励されて書き、氏の推挙で活字になった。大井広介氏に認めてもらい、嬉しかった記憶がある」(自筆年譜)。春、庄野潤三を知る。


 一九五二年(昭和二七年)二八歳
 一月、前年一二月発表の「原色の街」(「世代」一四号)が第二六回芥川賞候補、次いで七月、柴田錬三郎の推挙で「三田文学」(六月号)掲載の「谷間」が第二七回、続いて翌年一月、「ある脱出」(「群像」一二号)が第二八回芥川賞候補となる。一一月、左肺尖部に空洞が発見され、三世社(新太陽社の後身)を休職。この年春、安岡章太郎三浦朱門石浜恒夫、秋に阿川弘之島尾敏雄らを知る。


 一九五三年(昭和二八年)二九歳
 二月から始まった新人の定期的会合”一二会”(後に”構想の会”)を通じて近藤啓太郎小島信夫結城信一五味康祐奥野健男、進藤純孝、服部達、遠藤周作らを知る。休職中の三世社に辞表を出し、小島信夫の紹介で春から夏にかけて千葉県佐原市の病院で療養。一一月、清瀬病院に入院。