銀座百点 号外70

 吉行淳之介は、番町小学校から麻布中学校にすすんでいる。典型的な中流家庭の子どもである。青南小学校から第一東京市立中学校に進学した安岡章太郎と、よく似ている。ただし、学校へ行くのがイヤで、青山墓地にじっと身を潜めていた安岡章太郎と違い、吉行淳之介はきちんと登校している。
 しかし、友だちはすくなかったようで、学校から帰ってくるとランドセルを家に放りこんで塀の上や屋根に上ってしまう。足のわるかった祖母が、わけもなく物差しでたたいたりしたからである(この祖母は、岡山の夫と別居しており、夫の悪所通いのツケの病気をうつされての足萎えかもしれず、ヒステリーのはけ口がいつも近くにいる孫にむかったのではないか、と後年、吉行は書いている)。それに、文学の筆を折った父親が(当時は兜町で株の売買などをしていたが)、突然帰宅して、理不尽な雷を落としたり、無謀な振る舞いをしたからである。子どもは、家にいるとロクなことがない、とおもうようになる。
 やや大きくなると、麹町から一人で歩いて銀座まで行った。銀座の伊東屋のなかに母親の美容室があったからである。手の空いている(美容室の従業員の)おねえさんにアイスクリームを食べにつれてってもらったり、伊東屋の鉛筆製造過程を見せるイベントを眺めて製品名の入らない鉛筆をもらったり、一人でデパートを探検したりした。
 父の吉行栄助(ペンネーム、エイスケ)は、先見の明があり、当時すくなかった美容師の資格を妻であるところの吉行あぐりにとらせた。そのころのパーマ代は、新入社員の給料に匹敵した。しかも文化人扱いで、吉行淳之介は、自分の名前がなかなか載らない文藝手帳に、長いこと母親の名前は載っていた、と語っている。栄助は、文字通り髪結いの亭主になったわけである。