銀座百点 号外72

  昭和五十三年発行の「吉行淳之介の研究」(実業之日本社刊)がようやく見つかった。最近は、ちょっと調べたいとおもう本が、なかなか見つからなくて困る。
 この本は、吉行淳之介についてなにか述べたいとおもったときには、非常に便利な本である。早速、ぼくの間違いが判明した。齢は取りたくないものである。
 北杜夫が、麻布中学校時代の吉行淳之介のことを語った部分、朝礼台にあがって云々のところは誤りで、もしかすると山口瞳の言葉だったかもしれない。北杜夫は、「麻布中学のことなど」という題で、こんなふうに書いている。


 吉行淳之介氏は、私にとって麻布中学の先輩でもある。氏は重い腸チフスを患ったため、私が入学した当時、本来なら上級学校へ行っていたはずが、五年生として在学していた。といって、もちろん氏の存在は知らなかった。


 これだけで、朝礼台云々は北杜夫の言葉ではないことがはっきりした。


 吉行氏が入学したころは、もっとくだけた本来の校風があったはずである。それは、都会風に一種しゃれた、教師に気の利いた渾名をつけたり、いい意味でサボったり、近所にある東洋英和女学校を、おれたちの縄ばりだと称したりする雰囲気である。そしてそれは、都会的な繊細な神経をもち、都会的にモダンな吉行氏の人間像にぴったりしていたと思われる。


 私が受験した年は、麻布中は一次試験校になっていたが、以前は二次試験校であった。それで、一中などの入試に失敗した優等組が受験し、やはり一種の秀才校であった。それもガチ勉などせず、それでも上級学校の合格率はよいという嫌味のない秀才校であった。(それが近ごろ、徒らに合格率を誇る予備校めいてもきて、困ったものである。)
 そういう中学で、吉行氏がどんな成績をとっていたかというと、私もアッと驚いたことに、三年生のとき彼はA組の級長であった。それは二年生の最後の学期の成績が、学年一位であったことを意味する。