銀座百点 号外73

吉行淳之介の研究」の目次を見てみると、「1 吉行文学についての考察」「2 吉行淳之介という人間」「3 吉行淳之介エピソード集」「4 作家に聞く…文学創造の秘密」の四つに分かれている。読んで面白くて、しかも役に立つのは、「エピソード集」である。ぼくは、文学論はあまり好きではない。
 しかし、奥野健男の「異端者的エリートの文学」は興味深い。奥野健男麻布中学校吉行淳之介の後輩でもあるからだ。文学論に人物論がまじり、また文学論にもどる。こんなふうに。


 吉行淳之介の場合は、その都会的センスはやつしの美学、横向きの姿勢としてあらわれる。派手で奇行が多かったと言われる新興芸術派の作家吉行エイスケを父としながら、吉行は山の手の良家のよくできる坊ちゃんとして素直に育ったように思える。麻布中学校で吉行の後輩であったぼくは、級長をつとめていた彼のいかにも秀才らしい好感のもてる姿をおぼえている。だがいつからか吉行は自分が優等生であることにはみかにをおぼえるようになる。秀才コースを行く勉強家の友人たちに違和感を抱くようになる。そして自分だけ、照れてちょっと横を向き、遊蕩児、放浪児めかそうとする。だが優等生的エリートと完全に袂を別つわけではない。優等生の中の異端者という巧妙な位置に身をおくのだ。その点、同じ第三の新人と言っても、落第生の意識を逆にアウトサイダーたる文学の中のエリート意識につなげた安岡章太郎の場合と異なる。吉行が遊び人、不良に身をやつし落魄をよそおうのは、その底に都会っ子、優等生という、まぎれもないエリート意識があるからだ。


 だが遊び人、放蕩児、不良に身をやつすのは彼にとって、単なるしゃれた、世をすねた、反俗的ポーズとだけとは言えないように思える。彼が世間の、常識的な秀才コースから外れて、文学者に、遊び人に、家庭破壊者に、のめりこんで行くのは、趣味やポーズの問題ではなく、そうしなければ生きて行けない宿命感みたいなものがあるように思える。自分は本来この世の中に生きて行けない、まともには暮らして行けない人間なのだという痛切な自覚と怖れが彼にはあるのだ。自分の考えを告白的にしゃべったり、論理的に意味づけることを嫌う彼は、そのことを明らかに言いはしない。