銀座百点 号外74

 講談社版「吉行淳之介全集」全八巻は、昭和四十六年に刊行が開始された。そして、最終巻の第八巻は、翌四十七年二月二十日に発行されている。ぼくが探していた吉行淳之介の文章が、ここに収録されていた。
 それは、「断片的に」と題するごく短い文章である。当時、新潮社から刊行されていた文学全集「新潮日本文学」の第五十三巻「吉行淳之介集」の月報に掲載された。月報には、たしか「わが文学の揺籃」というテーマで、各巻の収録作家が自分の文学について書いている。
 ぼくは、渋谷の大盛堂という書店で、この「吉行淳之介集」を手にとってみた。それから、挟みこんである月報に目を通して、ちょっと驚いた。そんなことまで書いてしまっていいのか、とおもったからだ。


 私は男色趣味はないが、武者修行の気持で何回か実行したことがある。ただし、当方は男役である。二十数年前、当時有名の男娼に気に入られて、長時間にわたって数回身の上ばなしを聞かされたが、退屈をきわめた。やはり、自分を客観視してポイントを掴むセンスが必要で、これは半ば以上生得のものだとおもう。いくら異常な体験を重ねても、文学的才能がなければ駄目なものは駄目である。さりとて、それだから人間として駄目とは、私はすこしもおもわない。その逆に、小説を書くところに追いこまれる人間は、じつに因果な性分だと考えている。現在では、小説家の社会的地位も向上してきて、有利な職業のような錯覚を与えている傾向があるが、そういう気分ではじめた文学は甚だ志の低いもので近い将来その種のコンピューターが代用するようになるであろう。しかし、手工業的なもののうち残るものは残る。ただ、今のように小説家が金に苦しむことが昔に比べてすくなくなっているという状況は変ってきて、貧窮に苦しむ時代が再びくるのではないか。
(つづく)