銀座百点 号外75

 私の父は新興芸術派の作家(一時期、二十二から五歳のころは流行作家と呼んでもよかったようだ)だったが、早く筆を折って(行き詰まったのだとおもう)蔵書を全部売払い、およそ家庭には文学的雰囲気はなかった。稀にしか帰宅せず、そのときは近所に下宿していた十返肇たちと麻雀ばかりやっていた。もっともこういうヤクザ風の雰囲気が、ある意味では文学的雰囲気といえないこともないのが、ずっと後になって分った。
 母親は岡山の弁護士の家の生れだったが、私の父親の作戦にひっかかり、当時は尖端的職業であったパーマネントウェーブの修行をさせられた。父親がその父親から廃嫡(勘当よりもっと烈しい)処分を受けた折にもらった金をモトデに麹町に村山知義氏の設計で、当時としては型破りの三角形の美容院をつくった。以来、父親は髪結いの亭主をきめこみ、文士を廃業して兜町に事務所をもち株屋に転業したが、派手な売り買いはしたらしいが儲かったという話はあまり聞いたことがない。当時サラリーマンの大学出の初任給が七十円くらいのとき、パーマネントは二十円だった。したがって、父親は十二分に母親から金を吸い上げ、おまけに滅多に帰ってこない。帰ってきたかとおもうと、新しい足袋の底をパンパンと叩き合わせてもう出かける仕度をしていたのが印象的である。
 当時、母親はヒステリー気味で、夜になると私はその顔を見ることになるが、甚だ不機嫌である。部屋には一日中、祖父と別居中の足腰立たぬ祖母がいて、これがまた大ヒステリーである。どうもこの足萎えの原因は、祖父からウツされた梅毒のせいだったらしい。ここらあたりの家庭の按配を書けば面白いものになるかもしれないが、気が進まない。外面的にみれば、私は山ノ手のお坊ちゃんで「お祖母さん子」ということになるが、実情はいささか違っていて、この祖母が私をしばしば殴る。足が立たないので、長いモノサシで隙を見て殴るのである。
 家の中にいてもロクなことがないので、小学校から帰ってくると、ランドセルをほうり込んで、塀や屋根に上がってしまう。遊び仲間は近所のスラム街の子供だった。この頃から私は写真ぎらいで、一応父母が知名人だったので一緒に新聞社のカメラにおさまらなくてはならぬケースが起る。厭だ厭だというのを、むりやり屋根から引摺りおろされた記憶がある。
 当時のことをおもい出すと、私は孤児の生活を送っていたという印象から脱れがたい。この父親は若死して、そのときには土地家屋から電話にいたるまで二重抵当に入っていた。その前に、住居の半分を売払って、小さい家に引越している。
(つづく)