銀座百点 号外78

 人間にはだれにでも、人生におけるターニングポイントがあるようだ。吉行淳之介の場合は、十六歳のときの腸チフスがそれにあたるとおもう。ここで一年留年して、五年生を二度くり返すことになったが、しかし、もともとおそ生れを早生れとして届け出てあったので、実際に一年損するわけではなかった。
 

 何故、四月一日の日づけで届けを出したかといえば、一月一日から四月一日までは早生れということで数え年七歳で小学校へ入学できる。四月二日以降になると、おそ生れとして八歳でなくては入学できない。わずか二週間足らずで一年おそく入学するのはツマラヌという父親の意見で、早生れとして届けたという。(「私の誕生日」)


 ところで、おそ生まれの筈を早生れとして届けたということは分ったが、それならなにも四月一日生れに届けなくてもよいわけなのだ。三月三十一日でも二十九日でもよい。それをわざわざ四月一日エープリル・フール付けで届けたのは、父親の仕業にちがいない。「この戸籍の生年月日はウソですよ」という意味を含めて、四月一日にしたのは、父親のシャレ気というものだ。しかし、そこには若気のいたり、やや苦笑をさそうダンディズムが感じられる。
 祖母はこのダンディズムをにがにがしく考えていて、長い間、三月三十日生れと僕に教え込んでいたものとみえる。だいたい、祖母と父親はことごとに意見がちがい、衝突ばかりしていた間柄だったから、僕の生年月日をめぐる対立なども生々しく空想できるわけである。
 誕生日を祝う心持はあまりもっていない上に、その日付そのものが二転三転したので、どれがどれやら混乱し、僕はいつも誕生日に気付かずに過してしまう。(「私の誕生日」)