銀座百点 号外79

 二代目というと、私の場合においては当然文士の二代目ということになる。ところが、かなり大きくなるまで父親の正体が分らなかった。父親とは時折家に戻ってきて、わけも分らず怒鳴り、またいなくなる迷惑な存在であった。この気持は、中学五年生になっても同じであった記憶がある。その年、腸チフスという当時の大病にかかり、隔離病院に入院した。なかなか父親は見舞いにこなかったが、私は丁度よいさいわい、とおもっていた。「あいつは痩せているから、回復したら肉などどんどん喰わせてやる」と父が言っているのを伝え聞いて、ますます見舞いに来てもらわなくてもいい、とおもった。当時の腸チフスは、回復期に堅いめしつぶ一粒で腸が破れ死に至るというもので、回復期はきわめて危険な時なのである。父はがむしゃらな性格なので、そういう回復期に見舞いに来て、口の中に肉を押し込まれるという恐怖があった。だから、見舞いにきてくれなくてさいわいとおもっていたし、長い間見舞いに来なくても怪しまなかった。じつは、この期間に、父は狭心症で急死していたのである。(「二代目の記」)


 私は自分自身を持て余していた。世間に立派に通用している少年たちと比較して考えると、いいところも取柄も全くなかった。その持て余す気持には、余裕は少しもなくて、劣等感と自己嫌悪に日夜責められとおしていた。中学五年、腸チフスになって隔離病室に入れられたとき、高熱の頭で自分の欠点を五十幾つ数え立ててみて、生きてゆく気持を失ったことがあった。
 父親が死に、私はチフスの回復期になり、そのときからようやく文学書に触れはじめた。そして、萩原朔太郎の著書に出会ったことは、私にとって大きな出来事だった。彼はそのエッセイの中で、詩人という種類の人間がどういうものであるか、詳しく書き記している。そして、私が自分自身を持てあます原因となっている数々の事柄は、そのまま詩人の特性として挙げられているではないか。そのときの心持は、劇的であった。心臓のまわりを取り囲んでいるセルロイドの殻が、みるみる溶けて消えてゆく気持である。
 私は詩人になれる、とおもったわけではない。そういう考えは、毛頭なかったといってよい。そんなことよりも、私のような人間にも、ちゃんと場所が与えられていたという発見のよろこびである。私はエッセイの次に詩という順序で、朔太郎に触れた。すると、その詩の微妙な味わいが、ことごとく分るではないか。しかし誓って言うが、私は朔太郎ばりの詩を書いたことは、一度もない。芸術は模倣からはじまる、とはしばしば言われることで、またその通りに違いあるまいが、模倣という言葉の解釈には慎重である必要があるだろう。(「私にも生きる場があった……」)