銀座百点 号外80

 ぼくは、吉行淳之介のターニングポイントは腸チフスだといった。その体験がなければ、相変わらず素直な優等生で、優秀な同級生たちといっしょの道を歩んだ筈である。
 ここに、「童謡」という作品がある。題名を忘れていたので、探し出すのに苦労した。ぼくは記憶力抜群の男で、以前にはなにかを探すなどということはほとんどなかったのだが。
 いまでも、普通の家庭にしては、結構な数の本がある。昔は、もっとあった。そして、本棚に収まっている本は箱入りの本以外はすべて購入した書店のカヴァーがかかっていたが、どこにどんな本があるかすべて覚えており、必要なときはすっとそこに手がいったものである。どの本になにが収録されているのかも熟知していたから、自分がいわば索引のようなものだった。このごろは、前にも嘆いたとおり、たとえば「童謡」ひとつとっても、簡単には見つからない。ときとして、いちど開いて確かめた筈の本に入っていたりする。講談社版「吉行淳之介全集」の第四巻に収録されていた。


 少年は、高熱を発した。その熱がいつまでも下らず、とうとう入院することになった。見舞いにきた友人が、うらやましそうに言った。
「君は、布団の国へ行くわけだな。あそこはいいぞ」


 友人は、病気馴れしている。「高い熱はそのうち下ってくる。君は、高い熱の尖った頭をうまい具合に撫でて、まるい小さな頭にすることができるようになる。微熱というのは、いいものだ。そうなれば、君は布団の国の王様になれる」という。


「そんなものかな」
 少年はそう答えたが、熱のために喉が塞がって、呼吸が苦しかった。「そんなものかな」と、あらためてそう思い、少年は友人の病気馴れのした青白い顔をみた。


 ところで、少年にとっては、事態はすこしも、「そんなもの」ではなかった。
 高熱は、いつまでも続いた。高熱を出しつづけるためには、燃料が必要だ。その燃料に、少年の肉や血が使われた。胴体や腕や脚の肉は、たちまち失われてしまった。
 しかし、少年の躯はそれでも高熱を発しつづけた。そのため、鼻梁の肉や、頭蓋にかぶさっている薄い肉や、歯ぐきの肉も失われてしまった。頭蓋骨の継ぎ目が、指先でさわれるようになった。膝の骨が、細い松の枝にできた病瘤のように、大きく飛び出した。尻の肉も全部削げ落ちて、肛門が長い管のように突き出してしまった。
 少年の肉は燃え尽したが、生命は燃え残った。そして、高い熱は、みるみる下りはじめた。