銀座百点 号外95

「ある設定」というエッセイを見てみよう。


 私は、近頃また持病のゼンソクが悪化しはじめた。こうなってくると、座右にいつも置かなくてはならぬものが、一つ殖えることになる。
 それは薬液を霧状に変えて、気管支の中に吹きこむ器械だ。
(中略)
 ふっと、厭な予感が掠めた。そのままセルロイドの管をくわえようとしたが、もしや、とおもい、眠りが残って重たい腕を伸ばし、枕もとの電気スタンドの釦を押した。
 私の掌は、ガラス容器の下部を握っていた。明るい光が、私の手もとを照らした。
「これは」
 と、声にならない呻きを洩らした。
 灰色がかったクリーム色のナメクジが、セルロイドの管の上に、長々と躯を伸ばしていたのである。あやうく、私はナメクジと一緒に、セルロイドの管を、口の中に入れてしまうところだった。
 私の部屋は、崖の下にあって、戸を開くと青苔の生えた石の堆積がすぐ眼の前に見える。湿気の多い土地だとはおもっていたが、部屋の中にナメクジが侵入してくるほどとはおもわなかった。そして、湿気はゼンソクに禁物なのである。
 なぜ、この土地に住んでいなくてはならぬのか。
 私は憤懣をこめた眼で、あたりを見まわした。しかし、いまこの部屋を動く方策がつかぬのである。


「年譜」の「一九六〇年(昭和三五年)三六歳」の最後に、ポツンと付け加えるように、「この年、大田区千束で宮城まり子と一緒に住み始める。」とある。