銀座百点 号外96

「私の文学放浪」を見てみる。


 百七十五枚の作品「闇のなの祝祭」を書くために、私は七カ月かかり、同じ枚数以上の原稿を破棄した。私の場合、沢山の原稿用紙を使ったことはすこしも自慢にならぬので、内容と形式の喰違いとか、材料の選択の間違いとか、抽象的なテーマに向って細部が結晶してゆかぬこととか、要するにやりそこないを繰り返している証拠にすぎない。私の代表作のようにいわれている「娼婦の部屋」とか、それにつづく諸短編では、私はほとんど一枚の原稿用紙も書き潰していない。
「闇のなかの祝祭」の場合、ともすれば素材のなまなましさに引摺られかけ、そうなると、これまでの私の作風とは違ってしまう。違っても、まったく別の作風として成り立てばよいのだが、中途半端になって文字が原稿用紙の上にへばりついてしまい、起き上がって語りかけてこない。そういう部分を破棄することを繰り返しているうちに、ようやく、作品を組立てるための材料を、実生活から引っぱがして手のうちに握ることができるようになった。
 そこで、それらの材料を使って一個の作品をつくり上げたのだが、私の狙ったものはもちろん実生活の告白ではない。それではないかといえば、女性に惚れたときの妻子ある男の状態の悲しさを含んだ滑稽さを描き出そうとした。男の気持が真剣になればなるほど、その滑稽さは大きくなってゆく。
(中略)
 この作品を書くために、細部を私の実生活から持ってきたことは、私の失策だったかもしれない。しかし、自分の掌で掴んで確かめた体温の残っている材料にたいする未練が、作家として捨て切れなかった。したがって、この作品を告白として読んだ読者を、作者の私はあながち責めるわけにいかない。
(つづく)