銀座百点 号外100

 一九六四年(昭和三九年)、吉行淳之介が四〇歳のとき、師事していたともいえる佐藤春夫がなくなった。吉行が家を出てから、四年が経っている。「追悼佐藤春夫」には、佐藤春夫夫妻をはさんで、まだ縁の切れない妻の影が見て取れる。


 佐藤春夫先生ご夫妻には、多大のご迷惑をおかけした。私がある女性と恋愛関係になり家を出るという事態が数年前から今日までつづいているのだが、その件に関して私の配偶者がことあるごとに佐藤家に駆け込み訴えをする。その言い分に、佐藤夫人が耳をかたむけられて私を叱責されてから、訴えはますます度重なったようだ。先生は来るものは拒否しないというご気性であるから、内心迷惑とおもわれながらも、来るに委せておられることが、分っていた。しかし、私は配偶者にたいして命令を下すという夫の立場を放棄しているので、制止することができなかった。
 昨年の野間賞パーティのとき、先生は「また訴えがとどいておるぞ、新年までに弁解を用意しておきたまえ」と、重たいがユーモアの滲んだ語調で言われた。新年のご挨拶に佐藤家にうかがうのが毎年の例であるが、その際の夫人の叱責にたいしての弁解を用意せよ、という意味である。
 今年の元旦は、私は安岡と庄野と一緒に、ご年始に参上した。夫人が私を叱責され、私は弁解の仕様もないので、口のなかでむにゃむにゃ言った。先生は素知らぬ顔でタバコをふかしておられる。私はすこし酔ってきた。夫人が座を立たれたスキに、先生にたいしてくだをまいた。
「先生はズルイや、ズルイや」
 私の立場を理解されている筈なのに、夫人がおられると知らぬ顔の先生について、私がそう言ったわけだ。そのとき先生は、重々しく、答えられた。
「達人とは、ずるいものじゃ」
 私は、いつもの逃げ腰がなくなり、談笑の時が二時間ほどつづいた。先生は、大そうお元気だった。やがて、あまり長居になってはとおもって私が立上がると、先生がいつもの語調で言われた。
「半達人のまま、帰るのか」