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 いて丁さんから、「吉行淳之介展」のカタログをご恵投いただいた。文庫版の高橋和己全集を進呈したお礼である。ぼくが吉行淳之介を好きなのを知っていて、あまり世間に出まわっていない本だから、きっとあいつも持っていないだろう、とおもわれたのかもしれない。実際は、お送りした本よりも梱包の仕方に感心してのお返しのようだけれど。
 わさび亭の帰りのホームでの立ち話のなかで、高橋和己の名前を口にしたいて丁さんに、文庫でよければ高橋和己の作品集、買ったはみたけど読まないから差し上げましょうか、と安請け合いをしてからずいぶんたっていた。
 そのカタログは、1998年に世田谷文学館で開催された吉行淳之介回顧展で販売された本で、ぼくは買わなかった。単行本も持ってるし、全集、作品集のたぐいも出るたびに購入していたので、いまさら屋上に屋を置く必要はないとおもったからだ。
 しかし、いただいて読んでみると、意外な文章が載っていた。終生の友だちだった阿川弘之が、本人が生きていたらとても書けないような事柄を書いている(「吉行淳之介の魅力」)。


「一種独特の雰囲気」も「繊細な都会的センス」も事実だが、ただやさしかつたといふのとは違ふ。(中略)
女好きの女嫌ひ、妙に残酷で頑固でつめたいところ、嫉妬深くて女性的にしつこいところ、相手によつて鷺を烏と言ひくるめる小意地の悪さを、たっぷり持ち合せてゐた。


 この文章の書き出しは、以下のようになっている。


 私は四十年間吉行とあまりにもしばしば顔を合せてゐた為、かういふ題の文章は却つて書きにくい。近過ぎて見えなかつた部分があると思ふし、見えてゐても「そんなこと正面切つて言へるか」といふやうな関係であつた。


 そして、しめくくりは、こう書かれている。


 個人的な祝賀会とか記念会とか、死ぬまでしない、死んでもしないと決めてゐたはずなのに、どういふわけか此の展覧会が開かれることになつた。淳之介の人柄と作品に関して、これがもう一段深いところを指し示すよすがになるといい。


 ぼくのカミサンは、妙にさめたところがあって、ときどき、真顔で、「あなたって」といって、こちらがどぎまぎすることを平気で口にした。阿川の文章を読んで、ぼくが、あっとおもったのは、阿川が永いあいだ口に出さずにいた言葉と同じことを、とっくにカミサンからいわれていたからである。