綴じ込みページ 猫-66

 吉行淳之介「百間の喘息」から引用する。


 上京したあと、内田百間は昭和十二年に牛込市市谷仲之町から、麹町区土手三番町三七番地に転居した。私は昭和三年から同区土手三番町一九番地に住んでいた。十九年だったか、町名表記が変り、土手三番町は五番町になった。
 昭和二十三年、百間先生はすぐ傍の六番町の新築極小住宅に移った。
 私は三十四年まで五番町にいたが、百間先生の住居の場所は今でも曖昧である。市谷から四谷への土手下の一劃であることは確かなのだが。その土手下の狭い道を市谷側から歩いてゆくと、左へ曲がる手前のところに、土手から松の枝が突き出している。道幅いっぱいに、頭上を太い枝が水平に遮っている。百間先生は夏目漱石に師事していたが、その漱石の「吾輩は猫である」に「首吊りの松」というのが出てくる。そのモデルがこの土手の松だという説があったが、これも確かではない。
 二十二年間、歩いて五分ほどのところに住んでいたのだし、愛読者であったのに、道で見かけたこともない。とうとう生身の内田百間を見ることはできなかった。


 結局、吉行淳之介内田百間がごく近くに住んでいたことはわかったが、肝心のチラシを見たときの感想が書かれた文章が、いまだに見つからない。すこし前なら、どの本のどのページに載っているかを即座に返答できたのに。
(つづく)