綴じ込みページ 猫-72

作家の猫」の「内田百間とノラ、クルツ」には、こんなキャプションのついたビラも載っている。「近所の学校に通う子どもたちに渡すため、新仮名遣いで書き、謄写版刷りにしたビラ。親切なニコニコ堂文具店に置いてもらった。」


 みなさん ノラちゃんという猫を さがしてください!
 その猫のいるらしい所は麹町のあたりです。
 ねこの毛色はうす赤のトラブチで白い毛の
 方が多く、しっぽは太くて先の方が少しま
 まがっていて、さわってみればわかります。鼻の
 先にうすいシミがあります。左のほっぺた
 の上にゆびさきくらい毛をぬかれたあとが
 あります。「ノラや」と呼べばすぐ返事
 をします。もしその猫を見つけたら、
 ニコニコ堂文具店に知らせてください
 その猫がかえってきたら、見つけた人に
 お礼をさしあげます。


 この内田百間の章には、ドイツ文学者の池内紀がエッセイを寄せている(「涙雨のなか、ノラは帰らず」)。これが、百間先生の創作の秘密を暴くようで、たいそう面白い。面白いから、引用しよう。


 内田百間の『ノラや』(昭和三二年)は実にフシギな文学である。さかりの時期を迎え、飼い猫に去られた男が、愛する妻に出ていかれた夫のように、身も世もあらず泣き暮らしている。
「一日ぢゆう涙止まらず。」
「寝るまで耳を澄ましてノラの声を待つたがそれも空し。」
「・・・暗くなるまで声を立てて泣いた。」
 ノラ失踪以来、風呂に入らず、顔も洗わない。
「・・・いつ迄も涙が止まらない。寝る前風呂蓋に顔を伏せてノラやノラやノラやと呼んで泣き入つた。」


 なぜ風呂蓋かというと、ノラは百間先生のお宅の風呂蓋の上を寝床にしていたからである。百間先生は、ノラが失踪したあとも、食事と飲み水を風呂蓋の上に置いていた。
(つづく)