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 百間先生の「頭が少しわるいということ」について、誤解を解かなくてはいけなかった。
 筑摩文庫「内田百間集成12 爆撃調査隊」の巻末付録、高橋義孝「随筆 内田百間」をひらいてみよう。


 百間あるいは百鬼園、内田栄造先生は、私にとっては畏敬すべき大先輩である。東京帝国大学文学部独文学科での私の恩師の木村謹治先生と百間先生とは同級生でいらしったのではなかろうか。私も丑の歳、百間先生は私より二まわり上の丑の歳でいらっしゃるから、今年満七十二歳でいらっしゃる。私の母も丑で、百間先生とおないどしだ。


 余談だが、ぼくも丑歳生れである。ギコウ氏とは三まわり下だけれど、後輩のなりそこないなのが情けない。


 ところで内田百間とは、如何なる人物か。一言を以っていえば、くそじじいである。ああ実に何ともかんとも憎たらしいくそじじいである。こういう憎たらしいくそじじいは、世間にそう滅多にいるものではない。
「運転手さん、そこを右へ曲がって、妻恋坂を行った方が近道じゃないかな」
 私が運転手さんにこういったら、私のわきに目玉を剥いてふんぞり返っていらっしゃった百間先生、おもむろにのたまわく、
「高橋さん、私は天皇、皇后両陛下がお通り遊ばす道以外は通りたくありませんな。おい、運転手君、行幸啓の、大きい道だけ通ってくれ給え、近道なんかする必要はないよ」
 このくそじじいめ。このタクシーの料金は私が払うのである。天皇、皇后の行幸啓の道ばかり通られては、金がかかってしようがないではないか。
 とはいえ、一旦いい出したら、あとへは引かぬ百間じじいである。やんぬる哉、私は観念して、幅の広い大きな電車通りを大回りに回って、先生を麹町のお宅までお送りした。


 別のとき、ギコウ氏は飲み屋の前から百間先生とタクシーに乗った。乗ったタクシーの前部は、ギコウ氏の目白、百間先生の麹町とは逆の方向を向いている。まっすぐ行けば言問橋のほうに行ってしまう。ギコウ氏はふとおもいついて、「ひとつ言問橋を皮切りに、大川にかかっている橋という橋を全部渡ってみよう。先生、いかがです、」ときいてみた。「よろしかろう、ということで、まず言問を渡った。」それから、「大川の橋を順ぐりに下へ下へと渡って行った。まあ何のことはない。タクシーという針で、大川の左岸と右岸を縫い合わせるように、自動車を走らせたわけだ。勝鬨橋は渡ったかどうか、ちょっと記憶にない。」という具合で帰宅した。


 先生、大いに悦ばれた。たしか、この時のことを誌した一文が先生にあるはずである。そういう時、つまり損にこそなれ絶対に得にはならないようなことをする時の先生はひどく上機嫌でいらせられる。あまり憎らしいくそじじいらしくない。
(つづく)