綴じ込みページ 猫-78

 高橋義孝「随筆 内田百間」のつづき。


 私が本を出すので、題簽を百間先生に書いていただこうと思って、怖るおそる願い出たが、果たせるかな、先生首を竪にお振り遊ばさぬ。気さくに振舞うということは、先生には絶対ありえないということは前々からよくわかっているのだが、頼みごとを強く断わられると、やはり少ししゃくに障る。何だ、墨を磨って、字の二つや三つ位、ちょっと書いてくれたってよさそうなもんじゃないか、とつい思ってしまう。


 ギコウ氏は、この話を、ほかのところでも書いている。百間先生は、泣きべそのような表情で、明朝体はいいですぜ、としきりにいうばかりで、ギコウ氏は、百間先生が(本を出す自分を)嫉妬しているのではないか、と、ふとおもう。


 しかし、よく考えてみれば、これは先生の方が当たり前なので、こっちがわるい、けだし先生は頭が少しわるいからである。ちょっと待って下さい。内田百間は頭がわるいなどと書くと、とんだ誤解を招きかねない。この「わるい」というのは、特別の意味なのだ。
 つまりこうだ。AのことをするためにはBのことをして置かねばならぬ。BのことをするにはCのことが終わっていなければならぬ。Cのことが終わっているためには、Dのことがといった具合に、いろいろと手続きや順序がある。しかも、人間この世に生きているかぎり、しなければならないことはAだけではあるまい。A'もあれば、A"もある。それらのA'やA"が、みなそれぞれに、そのしりえにB'C'D'を、B"C"D"を従えているというのだから事ははなはだ面倒になる。どこからどう手をつけていいかわからないということにもなろう。頭がくるくると回転して、さっさと事を運べる人ならまだしものこと、ゆっくりと得心の行くまで、とことんまでひとつの事にかかり切りになるという人だから、いきなりEだのFだの題簽執筆だのということが飛び込んできたって、にべもなく断るというのは、百間じじいにしてみれば、まことに無理はないのである。
(つづく)