綴じ込みページ 猫-79

 ギコウ氏の「随筆 内田百間」のつづき。


 そこで先生、朝起きても、何から手をつけていいのかわからず、一時間や二時間は非常に多忙であるが故に、全然何もしないで、ぼんやりと坐って過ごすということにもなるらしい。先生の人生全体もそうではないのか。香取線香の空箱を山と積み上げて、それと睨めッこをしているというのなどもそれで、その空箱を動かして、棄てたりすれば、あとの空間の始末に困る。何かをそこへ持ってこなければならないが、そうなるとその何かが在ったあとの空間をどうするか。そこへまた何かを持ってくると、その何かが在ったあとの空間を埋めるために、また何かを持ってこなければならない。するとその何かが在った空間を埋めるためにーーああややこしい。私などは、そう考えただけでも胃袋のあたりがむずむずしてくるが、百間先生は年がら年中、そういうことで肝胆を砕いていらっしゃるのである。さきの憤慨が同情に変らざるをえない所以である。頭がわるいというのは、そういう意味だ。


「頭がわるい」という意味が解明できて、ぼくもほっとしている。


 百間先生が希代の美食家であることを知っている人は案外少ないのはどうしたことか。いや、美食家といわんよりは、執食家というべきか。食に執する人である。
 一日一回の先生のお膳のわきには、ピースの箱ぐらいのメモ帳が置いてある。そのメモ帳には、その日の正餐で先生が召上がる料理の名前がずらりと鉛筆で誌してある。この習わしは何年にも及んでいるようで、あのメモ帳も何冊たまっていることだろうか。ナス煮つけなどという料理が、カッコでかこまれて、その横にぴんと線が引っぱってある場合がある。これは、今日はもうそこまで食べ及ぶことができなかったから、明日に回すという意味だ。
 その執食家の先生、ある時ぷんぷん腹を立てていらっしゃる。大体すぐ怒る人である。(またすぐ泣くひとでもある)なぜ先生は立腹せられたかというと、先生、ある料理を註文せられた。すると、電話口で先方の店の者が同じ店の者と話をしているのがきこえてくる。
(つづく)