綴じ込みページ 猫-81

 ギコウ氏の「随筆 内田百間」も、そろそろ大団円である。


 さきにも書いたように、先生は頼みごとを絶対といってもいいほどに聞いて下さらない。人から何かしてくれといわれても、絶対にといってもいいほどに、そのことをしてやらない。自分がしたいことだけしかしない。憎たらしいくそじじいだと思われる所以がここにある。
「写真をとらせてください」「いや、写真をとることはお断りします」「原稿を書いて下さい」「いま書く気はありません」。すべてこの調子である。百間じじい、狷介にして人と相容れずの印象はここに生ずる。
 かと思うと、他人の妙な頼みごとをあっさりと引き受けることもある。そんな時、先生はお座敷選びをしているんじゃないかと蔭口をきく人もいるが、実は先生はそんなことをする人ではない。


 第一に、先生にあっては、頭の中の考えを具体的な行動に移すまでに非常に暇がかかる。
「車掌さん、切符」といわれて、「はい」と切符を差し出すバスの車掌さんのようなわけには行かないのである。ピースの缶のフタを開けて、手にピンセットを持って、「さて、どの一本を吸おうかな。どれが吸われたそうな顔をしているかな」という人である。先生のご郷里のおまんじゅうをお届けしたら、箱のフタを開けて、先生はまんじゅうに、まず「気をつけ」と号令をかける。それから「休め」と号令をかけて、おもむろにまんじゅうの一つを取り上げて、ぱくり。だから不意に他人が何か頼んだって、先生としてはむろん気軽にそれに応ずるというわけには行かない。つまり頭のはたらきが常人より少しのろいのである。これは決して低能ということではない。誤解なきよう、くれぐれも願い奉る。だから先生は、ちょっと見には例の放浪画家山下清君に似ている。文章もちょっと似ている。しかし、先生は今日の日本が誇るにたる名文家である。それに近時の先生の文章は、漸くにして蒼枯の趣を湛えるに至っている。文学賞の一つももらって、もう作家面をしているちんぴら小説書きなんかに先生の文章の凄さは到底わかるまい。
 内田百間先生は、うなぎどんぶりは上のうなぎを棄てて御飯だけ食べるものだなどとおっしゃりもするが、偏人ではない。狷介の人、奇行の人でもない。詩人である。


 ぼくは、この最後の行までくると、いつもウルウルしてしまう。そして、そのたびに、ギコウ氏に深く頭を下げるのである。