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 内田百間芸術院会員を辞退したときのいきさつが、「小説新潮」昭和四六年九月号に載っている。多田基『「イヤダカラ、イヤダ」のお使いをして』。


 内田百間先生をお訪ねするには、前もって先生の御都合を伺っていないと会ってもらえない。先生の方から私に用事がある場合でも、先生の都合で仲々埒があかない。とにかく、先生にお目にかかるには大変手間どるのである。しかし、いよいよ日時が決ると、その日は私達を迎えるのに色々と準備を凝らされるためにそわそわされていることを奥様から度々聞いた。お目にかかる時間は大抵午後六時で、先生の言われる正餐の膳立てがしてあって御馳走にあずかることになる。もちろん約束の時間に早くても遅くても、御挨拶をするときは御機嫌が悪い。先生の食卓の上のメモには、細かく献立が記入されていて、それを見ながら自分の構図通りに小皿、小鉢、グラス、盃、お箸などがキチンと並べてあるかどうかを納得がゆくまで点検し、それが済むと献立にしたがって仕度された酒肴を出すように奥様に指図される。まず、奥様の手でシャンパンの栓が抜かれて正餐が始まるのである。


 晩餐の手順は、ギコウ氏がいっていたとおりである。食卓の上のレイアウトをこころゆくまで並べ直すくだりは、ヒマラヤ山系こと平山三郎氏のエッセイにくわしい。その間、客は、両膝に拳を置いて、じっと待たなくてはならない。


 先生は、昭和四十二年十二月の奇数の日に会いたい、それには早い方が良いというので一日の午後六時に参上することになった。この時は平山三郎君と今は亡き北村猛徳君それに私とで相談がしたいというのであった。平山君は公務出張のために不参、北村と私が参上することになった。
 北村は、先生の芸術院会員候補推薦の前祝いだと言って舶来のシャンパンと甘栗一袋、ロマンスカーで買ったという大阪寿司を一折持参した。そして、この寿司が献立に追加された。
(つづく)