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 多田基という人は、百間先生の法政大学独逸語教授時代の教え子で、経済学者である。百間先生還暦後に「摩阿陀会」(まあだかい)という集まりを毎年催したが、その会の幹事でもあった。


 正餐が始まる前に先生が話された用事の第一は、芸術院会員の辞退の見であった。それは、こういう風に話された。「自分が、この度芸術院会員候補に推薦されたとのことだが、自分の記憶では、二十八、九年頃は任命形式で、その時分から自分が話題に上ったことを聞いている。その後、候補者の決定は、投票でするようになっているらしいが、自分は辞退する考えを持ち続けている。会員になれば、貧乏な自分には六十万円の年金は有難いが、自分の気持を大切にしたいので、どんな組織にでも入るのが嫌だから辞退する。このままにしておくと来年一月頃正式に発令されそうなので、自分の意向を早く芸術院院長高橋誠一郎さんに伝えて欲しい。それには、法政大学教授の肩書を持っている多田なら高橋さんも会ってくれるだろうから、その使いをしてくれ。」というのであった。
 そして、私を紹介する胸の先生の名刺と辞退の口上メモを手渡され、その理由を質ねられたらメモ通りに答えてくれとのことであった。北村も私もお慶びを申し上げて御祝いをどうしようかと考えていた矢先だから、冷水を浴びせられたように面食らってしまった。


「イヤダカラ、イヤダ」と伝わった辞退の言葉は、痛快でもあったが、モッタイナイ気持のほうが高校生のぼくには強かった。昭和四十三年当時の大卒初任給は29,100円である。芸術院会員の年金は、その二十倍である。それを蹴るだなんて、まったく、にくたらしいじじいではないか。


 いつものように、十一時頃先生の宅を出た。途中、北村と辞退されなければよいのにと話をむし返したが、一旦言い出したら決して引込められない先生のことだから仕方がないと諦めた。私自身大役を引き受けたものだと急に肩のまわりに重さを感じた
(つづく)