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『「イヤダカラ、イヤダ」のお使いをして』のつづき。
 多田教授は、芸術院総会が十二月七日に開催されることを聞き、その前に芸術院院長の高橋誠一郎内田百間の意向を伝えなくてはならなくなった。どうも忙しいことになった。
 電話番号簿で調べて、荻窪高橋誠一郎という人が見つかったから、電話してみたら同姓異人で、よく間違って電話がかかってきます、といわれた。慶応大学の塾員名簿で調べたら、大磯町の住所が見つかって、何度も電話してみたが、まるきり応答がなかった。あっちこっちに連絡して、四日の午後、ようやく慶応の三田図書館にその日は行っていることがわかった。


(前略)図書館受付で高橋先生に会いに来たと告げたところ、今帰られたばかりだ。でも、まだ車があるので、どこかに立ち寄られたのであろうと言うので、塾監局の方へ向った時、丁度その建物から、高橋さんは足の捻挫のため運転手の肩に支えられて、車に戻られるところであった。
私は、この機会を逸してはならないと考えて、高橋さんへ内田先生の紹介名刺と私の名刺を差し出した。高橋さんは、怪訝そうな面持で私を見ながら、自分は足を痛めているので車に乗るからと断わられて、車の席に就かれた。私は、窓ごしに、メモを取り出してメモ通りに内田先生の意向を伝えた。高橋さんは、私の持っているメモを注視しながら、文部省に芸術院会員を推薦する前に辞退を申し出られたのは内田さんが始めてで、今迄に会員になって辞任されたのは横山大観さんと梅原龍三郎さんの二人がいる。第二部会の委員長の川端康成さんも投票日に休まれたので、川端さんとも相談する。用件は分ったから、内田さんによろしく伝えてくれとのことであった。直ちにこれを内田先生に報告しておいた。
 その夜、「週刊新潮」の記者が来宅され、高橋さんに伝えた内田先生の辞退の理由を聞かれたので、例のメモの内容を話した。そのメモには次のように書かれていた。
(つづく)