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『「イヤダカラ、イヤダ」のお使いをして』のつづき。
1/12 多田様 栄造
◯格別ノ御取計ライ誠ニ難有御座イマス
◯皆サンノ投票ニ依ル御選定ノ由ニテ特ニ忝ク存ジマス
サレドモ、
◯御辞退申シタイ
ナゼカ
◯芸術院ト云フ会ニ這入ルノガイヤナノデス
ナゼイヤカ
◯気ガ進マナイカラ
ナゼ気ガ進マナイカ
◯イヤダカラ
右ノ範囲内ノ繰リ返シダケデオスマセ下サイ
これが巷間に伝わる「イヤダカラ、イヤダ」の名文句の典拠である。
この辞退の報道を各新聞社は賑やかに伝えた。十一日の午前、芸術院事務局長鈴木さんから、電話があり、高橋先生は耳が少し遠いので、私がメモを持って伝えたのをもう一度確かめてくれと言われたので、私はメモの内容を詳しく伝えた。その時、川端さんが百間先生に直接会って意向を確かめたい為六番町の内田さん宅を訪ねたが家が見つからないので帰って来こられたこと、そして高橋先生も内田さんが候補者として推薦されたとき、ことによると断わられるかも知れないと内心思っていたと洩らされたことを鈴木さんから聞いた。
そして、内田先生の芸術院会員候補の正式辞退が発表されたのは、十二日の午後十時四十分のテレビ放送によってであった。
(「小説新潮」昭和四六年九月号)
内田百間「摩阿陀会」では、多田基という人はこんなふうに書かれている。
肝煎の多田教授が物物しく立ち上がって、
「それでは、ああ、これから、ああ、摩阿陀会の、第一回の、摩阿陀会を開催いたします。肝煎としての一言御挨拶を申し述べたいと思いますけれど、それよりまだ先に、一杯飲んで、先生の為に乾杯しようではありませんか。御挨拶はその後でいいでしょう。それでは皆さんどうぞ」
そう云うから、私もさっきボイが置いて行ったばかりの麦酒の大コップを持って起ち上がった。
(中略)更めて多田が起ち上がった。
摩阿陀会の謂われを述べ、私がまだ健在である事を祝福してくれているらしいが、元来演説が上手でもないので、何を云っているのか印象は明らかでない。しかしもう大分劫を経ているから、わけの解らぬ事、或はどうでもいい事を、相当の時間にわたって尤もらしく述べ続けるだけの格式を備えている。何しろ相当にえらいので、彼の部下はしょちゅうこの様な演説を聞かされる事に馴れているだろう。