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 国有鉄道にヒマラヤ山系と呼ぶ職員がいて年来の入魂(じゅつこん)である。年は若いし邪魔にもならぬから、と云っては山系先生に失礼であるが、彼に同行を願おうかと思う。


「特別阿房列車」の冒頭近くで、内田百間にこう書かれているのは、元国鉄職員で作家の平山三郎。百間先生がドン・キホーテならば、平山三郎サンチョ・パンサの役回りである。しかし、このサンチョ・パンサは、同時にあのワトソンのような人物で、百間ホームズの一挙手一投足をつぶさに観察し、記録する。この人がいなければ、二度にわたる内田百間全集の編纂が、雑駁な、水で割ったウイスキーのようなものになっただろう。
 

 平山三郎は、大正六年東京牛込区北町生れ。昭和七年東京鉄道局に就職して、運輸省の機関誌「大和」の編集に従事した。戦後は、日本国有鉄道機関誌「國鐵」の編集にたずさわりながら、法政大学夜間部に入学し、日本文学科を卒業している。授業料は、内田百間が全額肩代わりしたということである。鉄道好きの内田百間に原稿を依頼したことから、昵懇となり、弟子というか家来のような間柄になって、百間先生が生涯を閉じるまで、その関係はつづいた。


 講談社版の「内田百間全集」第一巻は、内田百間がなくなった秋(昭和四六年十月二十日)に刊行され、最終巻の第十巻が百間の三回忌当日、すなわち昭和四八年四月二十日に刊行されている。編纂委員は、川端康成高橋義孝福永武彦。この錚々たるメンバーにまじって、編纂校訂をまかされたのは、平山三郎だった。平山に寄せられた信頼が、なみなみのものではなかったことがわかる。


 その後、昭和五六年十月から五年の歳月をかけて、旺文社文庫から「内田百間文集」全三十九巻が刊行されるが、この全巻の巻末に解説雑記を記したのも平山三郎だった。つぎに、昭和六一年十一月から、福武書店版の「新輯 内田百間全集」全二十五巻が刊行されはじめる。監修は、河盛好蔵安岡章太郎吉行淳之介で、編集解説は平山三郎だった(あとから新資料が見つかり、増巻して全三十三巻となったが、第二十六巻からは中村武志が編集担当となった)。


 講談社版よりは旺文社文庫版が、旺文社文庫版よりは福武書店版が、というように、平山の解説雑記は版をあらためるごとに精妙をきわめ、さらに進展し、充実を見る。生涯を内田百間の検証(それは顕彰につながるのだが)に努めた弟子の存在は、おどろくべきものがある。


 筑摩書房版「内田百間集成」第一巻「阿房列車」の巻末に、「雑俎」と題する平山三郎の文章が載っている。百間先生行状記のような内容で、身近にいた人にしかわからない事柄が書かれている。といっても、わざわざご覧になられる人も少ないだろうから、ちょっと紹介してみよう。
(つづく)