綴じ込みページ 猫-88

 平山三郎「雑俎」のつづき。


 魚に限らない。お膳の上で極めて我儘なのである。むかし、カツレツが旨いので一ぺんに七枚とか八枚食べた。また寒雀のひっぱりが気に入って、これも一ぺんに二十幾羽食べた。そういうことをするから君は貧乏するんだ、と先輩の小宮豊隆さんかにたしなめられたという話がありますが、あれは本当ですか、と或る時質問したら、
――二十幾羽じゃないョ、三十五羽だよ。と云って先生は不満そうな顔で訂正した。先生の我儘をわるく云うための伝説ではないのである。
 いったん凝り出したら余程の事情がない限り、二タ月でも三月でもそれを続ける。この間は、近所の古いのれんのうなぎに凝りだして、毎日毎夕、同じ串を註文する。月末に通算したら――と、他人に聞かれては具合がわるいような表情で先生が云うのである。――大の月の三十一日の月に、二十九本。
 自分でもあきれたような調子で先生は云うのであるが、しかしそれで鰻はもう飽きたというのではないらしく、いくらか物足りないような顔である。道理で、その凝っていた時分にぶつかったのだろう、続けさまに二三度、私もそのうなぎのご相伴をしたのを思い出した。


 小宮豊隆さんがお元気の頃、先生の家へ見えて、お酒を召上がって、さて遅くなったから帰ろうとする時、小宮さんは奥さんの方に向かってにゅっと手を出すのだそうである。いつものことなので、奥さんは心得て立ち上がり、その手を持って引張りあげる様にして小宮さんを立ち上がらせる。先生がどッこいしょと腰を上げようとする時、いつも引っぱり上げているので呼吸が解っている。――或る時、小宮さんが手を出したので、引張りあげたら、そのときは何か物を取ってくれという合図だったのが、小宮さんが立ち上がったあとで解った。
(つづく)