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 小西甚一「国文法ちかみち」オマケ「(三)現代仮名づかい」のつづき。


 世のなかには、現代仮名づかいと表音的仮名づかいとを同じに考えている人が多いらしく、どうして「現代仮名ずかい」と書かないんですかと質問されたこともしばしばだし、大学で国文学を専攻した人の卒業論文にだって「光源氏が五条の乳母の所え行ったとき」「民衆の相違に基ずく論がひろまった」などいった例は、いくらでも出てくる(註:正しくは「所へ行ったとき」「基づく論」)。しかし、これは、現代仮名づかいがある「ことば」を書きあらわすための決まりではないこと、したがって、その点では歴史的仮名づかいと同じなのだということを知らないための混乱でないかと思われる。


 小学校のとき、「上のお、下のを」という言い方を習った。あれは、つまり、こういうことだったわけか。


 いったい、現代仮名づかいなるものは、戦後まもなく、世間が悲惨な窮乏と混乱のどん底にあった昭和二十一年、占領のもとにおかれた内閣が大いそぎで公布したーーといえば、誰だってその成立事情は推察がつくだろう。何年かを費やしてもなかなか成案が得られそうもない仮名づかいの改訂が、あっという間に公布され、強制されたのだから、ふしぎに思わない人がいるなら、よほどどうかしている。そんな仮名づかいが完全無欠であるとしたら、おそらく世紀の驚異といってよろしかろう。ところが、この現代仮名づかいこそ、国語民主化のためのヒットであって、これに反対する者は民主主義の敵だーーなど言う人たちも出てきた。しかし、わたくしは、現代仮名づかいがあまり完全なものだとは思わない。どうせそのうち何度かやりなおさなくてはならないものだと考える。


 このあとにつづく小西教授の意見を受け入れるか、それとも否定するかで、その人の日本語感がわかるような気がする。
(つづく)