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 小西甚一「国文法ちかみち」のオマケ「(三)現代かなづかい」のつづき。


日本語は、あまり遠くないうちーーおそらく百年以内ーーに、ローマ字書きになるよりほかないだろう。百年前のことを考えてみたまえ。行灯から石油ランプ、さらに電灯、蛍光灯とかわってきた歩みは、これからあと半世紀の間に、もっと歩みを速めるにちがいない。百年前は籠が羽ぶりをきかしていた。今から半世紀あとには、自動車なんか昔ものがたりになって、ヘリコプターのようなものが交通の王座をしめるだろう。そのころ、お隣りのシナでは、すでに漢字は使われなくなり、ローマ字が国字になっているだろう。それでもなお、日本だけは漢字や仮名を使っていたとしたら、はたして世界の進みについてゆけるだろうか。わたくしは、ローマ字を使いたいとは思わない。しかし、使わざるを得なくなるだろうと思う。そうすれば、現代仮名づかいは、ローマ字書きにゆくまでの途中で通らなくてはならない混乱期のあらわれであり、必要悪だと考えたいのである。


 ぼくは、ローマ字書き論者の小西甚一に、以前も落胆したことを思い出した。生活様式が変化すれば、当然、漢字も仮名もなくなってゆく、というのは、少々短絡的すぎはしまいか。
 小西がこれを著した昭和三十四年から、すでに五十五年たった。まだ、自動車がヘリコプターにかわるきざしはないが、英語を話す人の数は格段にふえた。しかし、英語を話す人が漢字も仮名も書かないということはない。言葉は伝達手段であるが、それだけではない。その背景に文化がある。たとえ、ローマ字書きであっても、もとになる漢字や仮名が思い浮かばなければ、通用しないだろう。人は、ローマ字を読むとき、一語一語の背景にある漢字や仮名を当てはめながら読んでいるのである。それを否定するのは、ちょうど、五十音図だけ残して、漢字をすべて消し去ったあと、文章を書いてみろ、というのに等しい。


 句読点の必要性を説く話に、「ふたえにしてくびにかけるじゅず」というのがある。文章に句読点の必要などない、という数珠屋に、手紙で数珠を注文する話である(漢字まじりで書けば、「二重にしてくびに掛ける数珠」となる。肝心のところはボカしてある)。
 数珠屋は、早速、長い数珠をこしらえて届けに行ったが、注文主は、これは違う、という。だって、旦那は、二重にして首に掛ける数珠だと書いてきたじゃありませんか、と数珠屋はくいさがる。注文主は、私がほしかったのは、二重にし、手首に掛ける数珠のことだ、そう書いて送ったろうが、といって、あなたは句読点なんか必要ないとおっしゃるが、やはりなければ困るだろう、と笑った。


「FUTAENISITEKUBINIKAKERUJYUZU」
 はたして、ローマ字が国字になる日がやってくるのだろうか。
(つづく)