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 石川淳の「五十音図について」は、くどいようだが正字正仮名である。


 宣長のかずかずの仕事の中でも、於乎の所属を決定して、五十音図の完全な形式をたたき出したことは、国語学上たぐひなき功績である。この功績は過去のことではない。今日じつに然り。見よ、日本語に五十音図あり。この図から離れたところには、絶対に日本語のはたらきは無い。
 五十音図は日本語の法則の基本である。ことばの法則とはなにか。いふまでもなく、習慣の集成である。ことばといふ生きものが運動するためには、おのづから習慣上の法則がある。なにゆゑに基本を必要とするか。ことばの運動を自由ならしめるために、これを混乱にぶちこむよりは、基本をさだめたはうが便利にきまつてゐるからである。便利。これは文明の要請にほかならない。宣長国語学はまさにこの要請にかなつている。「かなづかいはいにしへのをいふ」とは、古来から現在までの日本語の歴史を一目で見とほしてゐたのだらう。「古書にはあはず」とは、基本からはづれているといふ意味にちがひない。五十音図は便利なものである。
わたしはをりあるごとに、いくたびも執拗にくりかへすだらう。「近世風の歌よみのかなづかひは、中昔よりの事にて、古書にあはず」とは、これを現代語にホンヤクすれば、左のごとし。
「文部省が新カナといふ政策を小学校のこどもに強制したのは、戦後の犯罪であり、五十音図といふ基本からはづれた無法不便なものである。」


 石川淳の文章からは、張扇の音がきこえてきそうである。
(つづく)