綴じ込みページ 猫-178

 石川淳の「五十音図について」も、そろそろ終りである。


「今の世、萬葉風をよむ輩は、後世の歌をば、ひたすらあしきやうに、いひ破れども、そは實によきあしきを、よくこころみ、深く味ひしりて、然いふにはあらず。ただ一わたりの理にまかせて、萬ツの事古ヘはよし、後世はわろしと、定めおきて、おしこめてそらづもりにいふのみ也。」(うひ山ふみ(ノ))
 さあ、じつのところ、これが新カナ派にとつて有利な陳述かどうか。念のために、これを現代語に訳して、左に示す。
「今の世、新カナをとなへる輩は、日本語のかなづかいの歴史をば、じつはいいかわるいかを、よくベンキョーして、深く感覚的にあぢはつて、さういふのではない。ただ通り一ぺんの政策論にまかせて、文部省御用のモーロク学者の愚論はみなよし、御用をきかないモーロクせざる学者の説はみなわろしと、きめこんで、あたまごなしに、あてずつぽうにいふばかりである。」


 附記
 国語についての論争にあたつて、われわれは五十音図といふ基本的法則に拠るほかに、手に何の凶器ももたない。しかるに、新カナ派は内閣告示といふ権力の棒をふるつて、小学生のアタマをぶんなぐることにはなはだ急である。これが「進歩的」な態度なのださうである。「進歩」とは何のことか。


 夷齋石川淳先生の講義はここまで。
(つづく)