綴じ込みページ 猫-179

 1990年に岩波文庫の一冊として、内田百間作「冥途・旅順入城式」が刊行された。手もとの本には、11月16日第一刷発行とある。新字・新カナである。解説は、種村季弘。なるほど、とおもわず膝をたたいてしまう、痒いところに手がとどいた解説である。 
 解説が終って、ページをめくると、[編集付記]として、この一巻の編集方針が三つあげてある。そのなかに「一、表記がえの方針については、次ページの中村武志氏の文章を参照されたい。」という断り書きが混じりこんでいる。


 中村武志さんは、定年後、文化人としてテレビに出たり、国政に立候補されたりしていたから、ご存じの方も多いだろう。ぼくがフジヤ・マツムラの社員だったころ、ときどき声をかけられることがあった。ドアに近い所にいることが多かったせいかもしれない。いつも替え上衣にジーンズ姿で、黒の革靴をはき、ソフトをかぶってステッキをついておられた。名簿を調べたらたしかに載っていたから、かつてお買い物をされたことがあったということになる。


 なかまで入ってこられることはめったになかったけれど、通りすがりにかならず手をふられた。たまたま、接客中で手をふっているのに気づかないでいると、こちらが気づくまでステッキのあたまの部分でコツコツとガラスのドアをたたいた。気づいてあわててお辞儀をすると、満足そうに手をあげて通りすぎていかれるのであった。
(つづく)