綴じ込みページ 猫-248

 高柳重信の文章は、明晰であるが面白味に欠ける。本当に真面目な俳人だったのだろう。とはいえ、その言葉は、案外、ぼくを励ましてくれるのである。馬脚を承知で、「高柳重信全集」から断片的に引用してみよう。


 定型詩に関わることは、形式の歴史に関わることである。それは絶えずその歩んできた過去と現在を強く意識しながら、来るべき明日の運命を考えることである。狭い自分だけの視野と状況だけに終始してはならない。


 俳諧とは要するに精神の遊びであり、高価なものなのである。その遊びを高価なものとするためには、それに先立って思い切った浪費が必要である。俳諧の精神とは、決して平凡で生ぬるいものではない。むしろ激情の鎮撫なのである。


 俳句とは、その一句ごとに、五七五と切字と季と助詞について、とっくりと考えることであり、その思考のなかで、形式の真髄をかいま見ることである。


 言葉少なく必死に語りかけているもの、これを持っていなければ俳句ではない。これを読みとれなければ、俳句の鑑賞はできない。


 人生を、たった十七文字で言い止めようとするのに、如何なる些細な手落ちといえども許される筈はない。


 考えようによっては「衰え」も美しいものだ。そういう「衰えの美」のようなものを内に秘めた作品が書けることも、それなりに作家の実力の現われと言える。


     暖かし猫の寝息も雨音も 飛行船