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「さて、僕の思うところに従えば、日頃、僕の書く俳句作品と異なる俳壇の諸作品は、一言にして断ずれば、ことごとく俳壇に横行する迷信の所産に他ならぬ。」


 高柳重信の「俳壇迷信論」の一節である。要点だけ挙げると、


「まず、あの一行書きの俳句。なぜ、こうも俳壇の諸作家たちが、あの一行書きに、強いこだわりをもっているのか、僕には解せぬ。」
 このあと、微に入り細にわたり、一行書きの不合理を説いてくれるが、それは省略。


「しかし、この、俳句は一行の棒の如きものと説く先生方が、時に及んで好まれる、あの色紙染筆、たとえ酒席などの例が多いとはいえ、途端に君子豹変はフェアではない。この一度きりの、ぎりぎりの定着を、酒が入ったくらいで臨機応変とやられては、作品にどれほどの涙の蓄えがあったとて、泣ききれるものではない。このでたらめさ加減、そろそろ、やめてもいいのではないか。」


「僕は、何も知らぬくせに、したり顔で老成したような口をきく、若年寄をいちばん嫌なやつだとおもう。
 要するに迷信というやつは、この若年寄のように、なんとなく、何処となく、権威らしいものを拾ってきて、それを身につけ、さもしたり顔で、老成ぶった口をきく、こういう連中が、いたるところへ撒きちらして歩くものなのだ。なにしろ、もっともらしい条件がそろっているのだから始末におえない。」


 こういう論を読むと、ああ、よかった、とおもう。若年寄じゃなくて。なんてたって、年寄りそのものだから。
(つづく)