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 高柳重信全集第三巻の「俳壇八つ当り」をのぞいてみる。高柳の評論が、だんだんおもしろくなってきた。
「俳句評論」創刊号に寄せた神田秀夫の文章の末尾の一行にふれて、高柳は「この一行こそ、ここ数十年、僕が久しく俳壇に待望してやまなかったものであった。」と書く。


 思えば、俳壇は、あまりにも頑迷に愚鈍に、リアリズムの迷夢にうなされつづけながら、敢えてそれを払いのけようともしなかった。そればかりか、むしろ、これを一種の錦の御旗のごとくかつぎまわって、それを信奉しない少数者を、ただそれだけの理由で、軽々しく否定したり無視したりした。
(中略)
 仲間はずれになるには勇気がいる。こういう陋習は、俳句に毒されてしまった人たちには、なかなか自覚されにくいことなのだろう。しかし、その埒外に立つ者には容易に観取できるものと見えて、たとえば、かの碧眼のサイディンステッカーなども、「写生は俳句の毒」だと、きわめて的確に指摘している。


 ともあれ、僕が十年ほど以前から、ことある毎に、いろいろと手を変え品を変えながら書き続けてきたことを、かくの如く見事に単刀直入に言いとめた、この神田秀夫の一行は、これからしばらく僕の口の端から去ることはないだろう。


 リアリズムということは芸なしのやることなんだぞ、馬鹿者共。