綴じ込みページ 猫-255

 高柳重信という人は、ずいぶんあっちこっちで喧嘩したようである。「俳壇八つ当り」でもその片鱗が見える。むかしはぼくも喧嘩っぱやかった口で、すぐにむかっ腹を立てていたが、最近は、というか、中年を過ぎてから非常に温厚になった。たぶん、怒るにはエネルギーが必要だから、それが不足してきたのだろう。あなたは円熟しないで恍惚になるタイプね、とカミサンにいわれたことがあったが、まさしくそのとおりである。エネルギー不足で円熟までたどりつけそうもない。そこへいくと、高柳はえらいものである。死ぬまで論戦をくりひろげていたのだから。一病をまぬかれて長生きしていたら、俳壇の風景も相当変わったものになっていたのではあるまいか。では、「俳壇八つ当り」後半の、さわりだけ。


「未完」の三月号に松井満天星が「気圧の谷間」という奇妙な文章を書いている。彼はそのなかで、「俳句研究」二月号の僕と金子兜太との往復書簡に触れ、僕が金子に「不特定多数の読者のための普遍性をあまり強く考慮しすぎた文章は、本当は解説家にまかせておけばよろしい」と書いたことを「兜太の高度な評論は一般俳人にはどうでもよく、特定の自称高度作家だけがわかる、いわば特別独占物として提供してほしいと望んでいるようで後味が悪かった。」と批判している。彼にとって後味が悪かったのは仕方がないが、思えば、ずいぶん身勝手ないい草ではないか。


 自分自身の俳句を書く上に、いちばん大切なことは、何でもよいから、なるべく早く、自分の独断を生み出し、これを育成し、構築することである。あらゆる面で、あらゆる点で、常に自分の独断論を展開できるように、自分の現に立っている場所と、その姿勢を見極めることである。そして、常に如何なる処にあっても、自分の独断論が展開できるようになったならば、それを自分なりに様式化することである。俳句というものは、要するにそうした独断論を様式化したものである。そして、俳句における思想というものも、それに外ならない。
(つづく)