綴じ込みページ 猫-256

 高柳重信「俳壇八つ当り」のさわりをもうすこし。


 だから、僕は、あの往復書簡の中で「問いが発せられたら、それに対して答えることは、それはたしかに必要なことです。しかし、あらゆる問に必ず答えなければならぬとしたら、一体、これはどうなるのでしょう。(中略)そうしたものへの応接にあまり力を注ぎすぎてしまうと、それよりももっと大切な、自分自身への問いかけが、ときどき捨ておかれる危険がないとも限りません」と書き、今日の俳壇で、しらずしらずの間に金子が背負わされている多分に啓蒙的な役割の過負荷を指摘し、あまり多数への説得を考慮しすぎた普遍性への傾斜をやめて、この際、もっと堂々とした、彼本来の独断論の展開を要望したのであった。何故なら、現在までの金子の文章は、彼が意識していると意識していないとに関係なく、多分に啓蒙的な普遍性への傾斜が強すぎて、そのために、それを一個の俳句詩論として見るとき、金子兜太その人の限定が少なく、かなりひ弱な感じがしてならなかったからである。


 金子は、これに対して、「今後とも造型について書きはするが、それは誰のためでもない自分のためだ」と答えているが、これは当然のことであって、彼がこういう立場から文章を書いてゆくかぎり、彼の方法論の前進や作品の変化が今後に大いに期待できるのである。
 俳句というものは、元来そういうものだし、また、誠実な俳句作家というものも、本来そうあるべきものなのだ。


 むかし、連衆と呼び、俳諧黙会といいならわした頃から、現在の、精神的同族に対する切実な呼びかけへと、多少のニュアンスに変化はあっても、俳句というものは、相寄るべき魂が、ひとりでに触れあい理解しあうのであって、そういうことをまるっきり考えてもみたことのない松井の眼は、彼がどんなに言い構えたにしても、それはまちがいなく節穴にすぎないのである。その証拠に、あの往復書簡を、単に書簡体というだけの理由から馬鹿正直に私信と判断しているのであって、あのなにげない書簡の裏側で、金子は金子なりに、僕は僕なりに、それぞれの応酬をしているのが、まるっきりわかっていないのである。まさしく、これもまた、芸なしの馬鹿者どもの好見本である。
 こういう馬鹿者が、甘ったれて、あんな文章を書いたということ、その奥の奥に眼をやると、やはり西東三鬼の「大政奉還説」以来の、あの迎合的大衆論議が、そこにひそんでいるような気がする。あれは、まったく有害な説であった。


 西東三鬼の名前がでてくると、穏やかではいられない。早速、「大政奉還説」に当ってみよう。
(つづく)