綴じ込みページ 猫-258

 高柳重信大政奉還の説・再説」のつづき。


 したがって、三鬼が、あの大政奉還の説の中で、すべての専門家は、この際、俳句を大衆の手に返還せよと発言したとき、そこで、彼が真に指摘したかったことは、その恥しらずに思いあがった、凡庸なる自称専門家の追放と解消であったはずである。三鬼は、俳句をいよいよ衰弱させ、決定的な破滅にみちびきつつある、いわゆる俳句の敵は、一見、蒙昧に思われ易い俳句大衆ではなく、みずからの凡庸さに気付かぬばかりか、真にすぐれたものに対して礼をはらうことも知らない、これらの思いあがった自称専門家の群れであることを、しっかりと認識していたのであった。そして、これは、いまもなお、十分に生きている論理である。


 たしかに、生前の三鬼は、一見、さまざまな伝説とともに華やかな存在として一般に考えられてもいたが、それでも、僕の眼から眺めたとき、その俳句と俳壇に対する数々の業績について、当然、はらわれなければならぬ尊敬や名誉や、そしていろいろな実質的な報酬など、決して十分には受けていなかった。というよりも、お座なりな無差別の並列という、俳壇の悪しき慣習を一方的に強いられて、三鬼の半分の業績もない作家たちが、彼とほぼ同時代同世代の故をもって、三鬼とほぼ同じ尊敬や名誉を与えられ、しかも、彼等がほとんど何のうしろめたさもなくそれを受けるのを、苦々しい思いで見ているより仕方がなかったのである。


 もし、三鬼の死を、俳句と俳壇にとって本当にかけがえのない作家の死と思うほどの者は、毎年、その忌日の頃には、せめて、彼の作品などを、心しずかに読みかえしてみるのが、すぐれた作家に対する当然の礼儀でもあろうと思う。すぐれた作家とは、一人の例外もなく、彼自身の俳句の文体を遂に発見した作家であり、だからこそ、彼の俳句に対する見解を述べる際にも、粗雑な論理などではなく、これもまた彼自身の文体をもってしか、遂に伝達することが不可能であることを十分に知悉している作家である。そして、いわゆる俳句の方法について考える時、その方法とは、ここにしか存在しないことを、身をもって体得していた作家でもある。


 引用ばかりで恐縮だが、高柳重信自身が感じていた歯がゆさを、きちんと再録しておこうとおもう。


 たとえば、永田耕衣のような、これも、いわばかけがいのない一人の作家が、簡単に、前衛派とか進歩派の名によってくくられ、更にその上に、関西という地域でもくくられた末、その他おおぜいの凡庸な作家と無残にも並記されるような、おそるべき非礼にしばしば遭遇することになるのである。


 戦後まもなくのことだが、当時のもっとも傑出した評論家として、大変な賞賛を捧げられた神田秀次が、その文章の同じ行に志摩芳次郎の名が並記されているのを読んで、あのがらんどうの志摩と一緒にされてはたまるもんか、と、ものすごく憤慨したのを覚えているが、それもこれも、みんな、あの大政奉還の説に、何処かでつながらずにはいない、同じ根から出ているものである。