砂糖部長

 まだ綿貫君が勤めていたころだから、昭和50年代のなかごろだったろう。その夜は、砂糖部長と綿貫君と、それからもうひとりだれか女性が残りの当番だった。
 砂糖部長は、名前と大違いで、シュガーレスな上司だった。ぼくは、入社の面接のとき、砂糖部長と社長がならんでいるのを見て、てっきり砂糖部長が社長だとおもってしまった。それくらい貫禄があった。社長はだれだとおもったかというと、経理のおじさんだとおもった。
 しかし、砂糖部長はどちらかというと小柄なほうで、貫禄なんていうと、だれかに、ちがっているよ、と注意されるかもしれない。小柄なくせに、みょうに肩幅がひろくて、手足がみじかく、顔がおおきかった。テーブルについているとふつうだが、立ちあがると急に腰から下が貧弱に見えた。学生のとき、弓道部にいて、つよい弓を引いていたというから、肩幅ががっちりしたのだろう。足のほうはきたえなかったようで、ランヴァン風の裾がややひろくなったスラックスで歩いているところは、いまにもつまずいてころびそうなくらい、おぼつかなかった。
 部長というのは、本店支店ぜんぶの統括をする役職で、店長の上のクラスだった。だれでもはじめからえらかったわけではないから、もちろん部長にも丁稚の時代があった。しかも、異色の経歴をもつ新人だったようだ。
 砂糖部長の父親は日本画家だった。売れない画家で、裕福ではなかったから、砂糖部長が上の学校にあがるとき、早稲田を希望したが官立に行けといわれた。それで、当時の横浜師範学校(現・横浜国大)に入学した。卒業して小学校に勤めたが、オルガンがどうしても弾けなかった。はじめて担任をもったとき、入学式の日に、いざ行進して教室にはいる段になって、受け持ちの子らを歩かせたら、うまく歩けなかったので、その日は一日校庭で気をつけと前にならいと前にすすめをやって、父兄におこられた。嫌気がさして、すぐ辞表をだした。ぶらぶらしていたら、銀座につとめ口を紹介された。丁稚にはいって、先輩にこづきまわされてるうちに、赤紙がきて招集された。中国にわたって特務機関として活動したが、拳銃をもたされておちつかなくて、始終隠し場所をかえていたら、どこにかくしたかわからなくなった。女郎屋から女性をつれだして、いっしょに馬で逃げたが、途中の荒野でじぶんだけ馬からずり落ちた。中国の冬は寒いので、地酒でひたすらからだを暖めていたら、アル中になった。給料(工作資金か)を削られるとこまるので、いろんな情報をじぶんでこしらえた。
 終戦後、また銀座の店にもどった。筆が立つので、よくのし紙をかかされたが、アルコールがきれると手がふるえた。ウイスキーの小瓶をポケットにしのばせておいて、そんなときはカーテンのかげでひと口飲むと、ぴたりとふるえがとまった。アル中がこうじて、鼻のあたまとほっぺたがおてもやんのように赤くなった。休日は、下宿の部屋に布団をしきっぱなしで、一升瓶を左右に置いて、寝返りをうつたびにそちら側のびんから酒を飲んだ。そのうち、寝たまま飲める工夫を考えて、病人の吸い飲みを用意して、酒を入れてちゅうちゅう寝たまま飲んだ。ある日、目をさますと、なぜか柱だけの建てかけの家の2階にいて、15センチ角ほどの梁の上に寝ていたことがわかって、酒がこわくなった。こわくならなくても、やめざるをえなかっただろう。肝臓が、もう、爆発寸前だった。
 だから、ぼくが知ってる砂糖部長は、宴会の席でもオレンジ・ジュースなんかを飲んでいた。入社した最初の日、ぼくは、店内のどこに立ってたらいいのかわからなくて、ネクタイの棚のかげにいた。砂糖部長は傲然とあごをふって、そこからどけ、と無言で示した。ギョロ目をむいて、おそろしい表情をした。だれか女性がとんできて、ネクタイは女の人がいたほうがいいの、とおしえてくれた。しかたなく、腕をうしろに組んで隅のほうに立っていたら、また寄ってきて、ギョロ目をむいて「手はうしろで組むんじゃない」と怒った口調でいった。「手は前で組め。自衛隊じゃないんだから」ぼくは、なんだか、ほんとに自衛隊に入隊しちゃったんじゃないかとおもった。