綴じ込みページ 猫-111

 吉行淳之介の「ミスター・ベンソン」は、さらに続く。


 私が窓を開けると、顎をじかに地面にくっつけて平べったくなっていた犬が立上がって近寄ってくると、一声吠えた。それは、友好のしるしである。しかし、その吠え声が妙に嗄れて、無理に声を押し出しているように聞こえた。
 自分でははっきり気付かない程度の微弱な予感が、心の底で動いた。あるいは、その不吉を無理に奥のほうに押し込んでいたのかもしれない。
 その数日後、半月ほど家を留守にして、仕事場へ行く必要が起った。その場所で暮らしはじめて十日目のころ、街で偶然アルバイトの青年に出会った。
 短い立ち話ののち別れようとすると、その青年が言った。
「ブーのこと、聞きましたか」
「いや、どうしたの」
「いやあ・・・」

 にわかに青年の口調が曖昧になって、逃げるように立ち去ろうとした。
「病気でもしたの」
「いえ、ええ、まあ・・・」
 相変らず、逃げ腰になっている。そのとき、私は悟った。頭の隅に小さい真空ができたような気分で、それは余程身近な相手の場合しか起らない。
「死んだのか」
 あきらめたように、青年は私に向い合い、
「ええ、咽喉に癌ができて、薬で安楽死させました。病気のことは、かなり前から分っていたんです。でも、私から聞いたことは黙っていてください。お仕事に差支えるといけない、とお家のかたたちに口止めされていたのですから」
 青年が立去ったあと、そのまま道に佇んでいる自分に気付くと、
「ま、仕方がない。いつかは死ぬんだ」
 と呟いて、歩き出した。
(つづく)