大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P162

 握りつぶすならその蝉殻を下さい


 この句、多くの人に温かい評をしていただいて幸せな出発ができた。いつの時代も弱者が犠牲になることに怒りを覚えて詠んだのだが、発表して良いものか迷った。以前に作った〈蝉よりも生き長らへて蝉の殻〉の句に比べ感傷的で私らしくないと思ったからだ。
 当時の「俳句研究」の編集長だった石井隆司さんが、「その句、発表したらと勧めて下さらなかったら永遠に没のままでいたのかもしれないのだ。 (『星涼』)

大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P160

身をよぢる月の柱の守宮かな


 荒(こう)ちゃんと名付けた子守宮は今夜も我が家のガラス窓にぴたりと吸いついて小さな虫を捕らえようと夢中だ。大きな守宮に邪険に小突かれても健気に自活する荒ちゃん。まだ、大きな守宮のように月光の差す柱に官能的に身をよじりながら上手に虫を捕らえられないけれど、夏から初冬になって荒ちゃんも成長した。来年は、烏瓜の芳しい匂いに誘われて来る虫を華麗に捕るに違いない。 (『星涼』)

大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P158

  逝く夏や魚の気性を玻璃ごしに


 しながわ水族館に行った。鮫やアザラシや古代魚など、ざっと見てからお目当の狼魚のところへ。口の大きさと獰猛さがうつぼ(魚へんに單)に似ているが、犬歯のある強大な歯が狼魚の特徴だ。水槽で涼しげに泳ぐ魚たちの中で狼魚はひときわ存在感と異彩を放っている。見入っていると、彼もじっとこっちを見てくれた。
 毎年、飽きもせず狼魚の句を作っているが、今年も狼魚と共に私の夏は終わった。 (『星涼』)

大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P156

 稲妻や辛子をいつも皿の隅


 あるとき、いつも皿の隅に置かれる辛子の気持ってどんなだろう? と考えた。昔々、りんごの気持はよくわかる、という文句の歌があったけれど、たいていの人が皿の隅っこの辛子になど関心を示さないだろう。だが、そんな瑣末なことも俳句には必要だと思う。例をあげたらきりがないが、烏の古巣、釘を抜いた穴、墓の萎れた供花、板の木目などに惹かれる。これからも身辺のささやかなものに光を当てて詠んでいきたい。 (『星涼』)

大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P154

  ひとりして萩のうねりをたのしめる


 子供の頃から、ひとりが好きである。人間や動物や植物も好きだし、幸せなことに良い友達も沢山いる。もしかして、ひとりが好きなのではなく我儘で自分勝手なだけなのかもしれない。この句、ひとりで吟行したとき、白い萩を見て作った。風にうねる萩のしなやかさと優美さを堪能し、じっくりと自分と向き合った。久しぶりに満ち足りた一日を過ごした。
 そして、私はまだ本当の孤独というものを知らないと痛感した。 (『星涼』)

大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P152

 かりそめの踊いつしかひたむきに


 あれは、盆踊の夜。町会長さんから「美人の奥さん、櫓の上で踊って下さいよ」といきなり言われた。美人と言われ、少しその気になったが、盆踊は初めて。原っぱで踊る輪の中に入れてもらいぎこちなく踊っていたが、手捌きを覚え次第に夢中になった。
 この「ひたむきに」は、大木さんの俳句に対する姿勢であると、俳人の中西夕紀さんが評して下さった。有り難きかな、友よ。 (『星涼』)

大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P150

 遠足の子や靴下を脱ぎたがる


 病気で吟行や句会に出られないときは、季語から想を練り、対象をあれこれ心に思い浮かべながら句作する。
 掲句の場合は、実際に母親が靴下を履かせてもすぐ脱いでしまう子供がいたのを思い出して作った。公園での実景が遠足になってしまったが、ずっと心に残っている情景が一句になることだってある。ただし、遠足にこんな子いそうだ、と読む人に共感して貰えないと成功したとは言えないのである。 (『星涼』)