大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P176

 足のつることもありなむ水馬


 水面を敏捷に滑走したり跳ねたりする水馬を眺めていて、その涼やかさを表出したくて〈水馬すいつと水にあるひかり〉という句を作ったことがある。この「すいつと」が水馬の特徴。だが、水で生きる水馬にとって長い六本の足を巧みに使うって大変。たまに足がつれることもあるのでは? という発想から生まれたのが揚句。この水馬、水に映る自分の姿にうっとり。かなりのナルシスト。 (『清涼』) 註:水馬(すいば)は、あめんぼ。

大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P174

 刺草の根を張る母の日なりけり


 母の日は、母の愛に感謝を捧げる日なので、母そのものを詠んだ句を多く見かける。そこで、少し観点を変えて詠んだのが揚句。刺草は茎葉の細かい棘に触れるととても痛い。葉や茎を守るためだ。その半面、若芽は柔らかくて美味。茎の繊維は糸や織物になる。この守るイメージと多様性こそ、母に通じるものがある。「刺草の根を張る」で辛抱強い母のあり方を普遍的に表したかった。 (『星涼』)

大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P172

 朝顔の裂けて大きく見ゆるかな


 高校生の私は、宿題に困り果て母に教えてもらった松尾芭蕉の〈あさがほに我は飯くふ男かな〉という句を真似て〈朝顔に我は猫飼ふ女かな〉というのを作って提出した。
 俳聖芭蕉の句を盗作? した罰があたったのか、俳句歴四十年にして朝顔の駄作しか作れない。揚句は、紅紫の朝顔に切れ目が入ってだらりと二つに離れたさまを「裂けて大きく」と詠んだ。裂けた朝顔は、風に揺れるたびに美しい南国の鳥のようだった。 (『星涼』)

大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P170

 殻ごもるでで虫を手に法隆寺


 奈良に着くとすぐに飛鳥寺、般若寺、唐招提寺を拝観してから法隆寺に立ち寄った。山門に入ると、いきなり男の子が「真珠みたいでしょ、あげるよ」と言いながら私の手に小さな蝸牛を乗せてくれた。殻にこもった主は触覚や顔さえ見せてくれない。仕方なく蝸牛を手に乗せて夢殿へ足を運んだ。梅雨時の湿った風の吹く夢殿。至福のひとときだった。「良い夢を見なさい」と蝸牛を救世観音に預けて夢殿を後にした。 (『星涼』)

大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P168

 麦笛や野に坐す吾はこはれもの


 三十四歳のとき、子宮筋腫の手術を受けた。麻酔から覚め、「もう子供を産めないんだ……」、そう思うと悲しかった。悲しみに追い討ちをかけるように同室の妊婦さんたちから「子供を産めないなんて、一人前の女性じゃない。壊れものね!」と言われた。毛布をかぶって食事も取らない私に、夫は「子どもは君一人だけでたくさんだよ」と慰めてくれた。それを良いことに、未だに私は子供で壊れっぱなしである。壊れながら俳句を作っている。 (『星涼』)

大木あまり「シリーズ自句自解1 ベスト100」P166

 鶏糞の匂ひのなかのチューリップ


 友人のお爺さんは、鶏を何十羽も飼っていて庭続きの畑には、肥料のための鶏糞を積みあげた小山があり、春になると、鶏糞の山の裾を取り巻くようにチューリップが咲いた。私が第二句集『火のいろに』を上梓したとき、入れ歯をふがふがさせながら句集『へのいろ』おめでとうと喜んでくれた。お爺さんは十年前に亡くなったが、春になるたび、鶏糞の山は赤いチューリップで華やかだ。 (『星涼』)

大木あまり「シリーズ自句自解 ベスト100」P164

 雛よりもさびしき顔と言はれけり


 雛は句材になりやすい。〈豆雛蕾のやうに着ぶくれて〉〈さからふを知らざる雛を納めけり〉〈ゆきずりの古き雛ゆゑ忘れ得ず〉。新作では〈夕闇の膝をくづさぬ雛かな〉〈風聞くは雛の歳月聞くごとし〉など私の思いを雛に託している。昔、男性から雛より淋しい顔をしている、と言われたことがあった。誉め言葉だと思っていたのだけれど、もしかして顔の印象が薄いってこと? (『星涼』)