荻馬場さん

 荻馬場さんは、ぼくと同い年ですが、10年先輩でした。しかも、ぼくが入社したときには、もう結婚退職して、店にはいませんでした。
 荻馬場さんという人が知りたければ、そのとき女性のチーフをしていた、荻馬場さんの後輩を見ればよくわかる、といわれました。わるいところをすべて引き継いでいる、というのです。なるほど、その人に似ているなら、ずいぶんいやな性格です。ぼくの嫌いなタイプです。
 荻馬場さんは、熱烈な恋愛のすえに結婚した、とききました。あるいは、本人がいったのかもしれません。男の子をふたりもうけましたが、ご主人との愛がさめたので、と本人がいいましたが、坊やをつれて離婚しました。実家が、神田のビル持ちで、母子三人くらい戻ってきてもてんで平気でした。まあ、食うに困ることはありません。しかし、子どもたちの手前、母親がのんびりしていては教育によくありません。そこで、母親の一所懸命働く姿を見せるために、もう一度つとめることにしました。それは口実で、本当は、まだ遊び足りなかったのでしょう。
 ある日、砂糖部長が、きょうから新人がくるからよろしく頼む、といって、にやにやしながら耳のうしろをかく真似をしました。こまっちゃったなあ、という思い入れです。いまどき、そんなフリをする芸人なんて、ひとりもいないでしょう。やってきたのが荻馬場さんでした。
 「出戻りで、年増の新人ですが、なんでも用事をいいつけてください。がんばりまーす」
 荻馬場さんは、ちょっと照れて、赤くなって挨拶しました。荻馬場さんの後輩にあたる人たちは、もういなくなっていました。
 荻馬場さんは、いっしょに働いてみると、いわれていたようないやな性格の人ではありませんでした。下町っ子で口のきき方が荒い、ということはあります。大雑把で、デリカシーに欠けるところがあるかもしれません。ひとりよがりで、押しつけがましいところもあるでしょう。おもいこみが激しく、負けず嫌いなのもいなめません。しかし、涙もろくて情に厚く、正義漢があって気前がよい、まったく江戸っ子の典型のような人でした。なにより、ずるい人ではありませんでした。
 はじめのうち、勤務は午後5時からでした。子どもが小さいので、夕飯の支度までして、自分の母親にまかせて出勤します。「おかあちゃまは、これからお仕事に行ってくるから、おばあちゃまのいうことをよくきいて、おとなしくしててね」といいきかせて出てくるといいました。
 その頃は、営業が夜の8時半まででした。仕事が終わると、「じゃあーね。寄っていきまーす」と手をふって、どこかへ走っていきます。「子どもが待ってるなら、早く帰ったほうがいいんじゃないの?」ときくと、「あら、友だちが待ってるの」という返事です。「子どもたちなら平気よ。いまから帰っても、もう寝ちゃってるもん」。
 出勤する姿だけ見せて、働くおかあちゃまやるなんて、それってずるくない?