2010-01-01から1年間の記事一覧

銀座百点 16

「銀座百点」No.500(平成8年7月号)に「思い出の作家たち ベテラン編集者が見た銀座百点」と題する鼎談が載っている。出席者は、川野黎子(新潮社)、大村彦次郎(講談社)、豊田健次(文藝春秋)。いずれも、自身たちが伝説の編集者である。 「銀座百点」…

銀座百点 15

「銀座百点」No.1(復刻版)の広告ページのひとつに、「スエヒロ」がある。 「あらゆる御會食にどうぞ」と書かれた下に扇型のマスがあって、メニューの一部があげてある。 一、洋室(ピアノ備付) 二〇〇名様 〃 (一般食堂) 大小 一、和室(舞台付広間) …

銀座百点 14

「銀座百点」No.1(復刻版)の最初の記事は、吉屋信子の「お店への憧れ」である。 『わたくしは父が地方の官吏だつたので、生まれるとから転々と父の転任地を、幼くて流浪したやうなものである。』 吉屋信子の父雄一は、信子が生まれてからも任地を転々とし…

銀座百点 13

1955年創刊時の「銀座百点」は、表紙も含めてぜんぶで52ページだった。2010年6月号の「銀座百点」No.667は110ページで、いまは各号ともこれくらいの分量が普通だから、はじめはずいぶん薄い冊子だったわけだ。 ちなみに、1996年7月1日発行「銀座百点」No.500…

銀座百点 12

1955年、「銀座百点」創刊時の会員(加盟店)は、100店だった。 1996年、「銀座百点」500号では、それが158店になっている。 「銀座百点」の百点は、百点満点の百点だから、158店あってもかまわない。 しかし、「銀座百店会」は、正式には「協同組合銀座百店…

銀座百点 11

内田百間(正しくは、門のなかに月)の「東京日記 その一」は、『私の乗った電車が三宅坂を降りて来て、日比谷の交叉点に停まると車掌が故障だからみんな降りてくれと云った。』とはじまる。ここでいう電車とは、路面電車のことである。 1955年発行の「銀座…

銀座百点 10

「銀座百点」No.1(創刊号)の復刻版に、久保田万太郎の「あやとり」が載っている。 あやとりの あや、おもしろや あやとりの あやにかくれし人の世の 謎、おもしろや 空、みれば 空、わたりゆく雁のかげ これは、詩なのだろうか。それとも、小唄のたぐいな…

銀座百点 9

「銀座百点」No.1(復刻版)の目次には、「表紙・佐野繁次郎 カット・島田しづ子」とある。 これが「銀座百点」No.500(創刊500号)では、「表紙・脇田和 カット・島田しづ レタリング・原理」となっている。 ぼくは、べつにレタリングの担当者が加わったこ…

銀座百点 8

「銀座百点」No.1(復刻版)最初の広告は、「味の素」。 『月に一缶はお安いです』 というキャッチ・コピーが、大きめの文字で目をひく。漢字にすべてフリガナがふってある。 『味の素100グラム缶 一個で吸物なら六五〇 人前の味を増します。 毎月五人家族に…

銀座百点 7

「銀座百点」創刊500号には、巻末に年表がついている。 これを見ると、現在「銀座サロン」という題でゲストを迎えて(テーマのある)雑談をしている頁が、もともとは「演劇合評会」だったことがわかる。 「演劇合評会」は、創刊した昭和30年(1955)8月から…

銀座百点 6

ついでに、「銀座百点」No.1の目次を眺めておこう(カッコのなかの数字は、頁)。 〈目次〉 お店への憧れ------吉屋信子(7) 銀座二丁目------清水 一(9) 扇雀・銀座を歩く------カメラ田沼武能(12) あやとり------久保田万太郎(15) マスカット・オブ…

銀座百点 5

発足当時の「銀座百店会」会員、つづき。 〈七丁目〉 清月堂本店(和菓子)/すし栄/遊ふき利(寿喜焼)/村松時計店(時計貴金属)/天地堂鞄総本店/オキナ(ハンドバッグ)/筑紫(和菓子)/本店濱作(関西割烹)/七丁目田屋(高級洋品)/凮月堂(旧南鍋町)/…

銀座百点 4

発足当時の「銀座百店会」会員、つづき。 〈五丁目〉 竹葉亭(蒲焼御料理)/宝来パン/京屋(履物ゆかた)/菊迺舍(和菓子)/世喜祢(趣味の呉服)/大和屋(宝石袋物)/若松(しるこ)/きしや(趣味の呉服)/清月堂(洋菓子喫茶)/三愛(お洒落と贈物は)/鳩…

銀座百点 3

「銀座百点」No.1創刊号に載っている「銀座百店会」のメンバーは、かぞえてみるとちょうど100店ある。 「銀座百店会」結成の「御挨拶」が巻頭を飾っているが、そこには「より明るい、より美しい、より楽しい銀座、何処にも他に求めることのできない立派な銀…

銀座百点 2

飯出君は、フジヤ・マツムラのガラスのドアをあけると店内にはいった。やや緊張しているようにみえた。そして、すぐそこにいた女性に、靴下がほしい、と声をかけた。 靴下は、入り口のそばのガラスケースの上にのせられた、仕切りのあるプラスティックのケー…

銀座百点

手もとに「銀座百点」の創刊号がある。といっても、これは「銀座百点」創刊500号記念号の付録として復刻された冊子である。紙質も創刊当時のものを模してザラ紙が用いられている。 「銀座百点」500号(No.500)は、1996年6月25日に印刷、7月1日に発行された…

彫刻 18

I先生の持病は、通風だった。ご本人は、一病息災、と気取っていたが、なかなかそんな甘いものではなかったようだ。 「たくさん仕事をすると、しこたまお金がはいるでしょ。そうすると、わたしは肉が好物だから、肉ばかり食べますよね。お酒はもちろん大好き…

彫刻 17

木彫のI先生に質問した。 「彫刻家にならなければ、なにになりたかったですか?」 「柔道家」

彫刻 16

木彫のI先生に質問した。 「彫刻を志すには、なにが必要ですか?」 「とりあえず、鉈(なた)と鋸(のこぎり)」

彫刻 15

ぼくの父は、病院の誤診でなくなった。ぼくが結婚して、二年目のことだ。 父が通っていた北品川の病院の外科部長は、舌がんを口内炎と見間違えた。ようやくそれと気づいたときには、もうどうにも手の施しようがなくなっていた。 ひとりの患者を、まったく関…

彫刻 14

四谷荒木町の建築家、知多半島出身のE氏は、どうやら本気で彫刻にとりかかったようだった。 「彫刻をやりたかった建築家連中を集めましてね。これが結構いるんですよ」 その夜も酩酊気味のE氏は、ちょっと膝を乗り出した。 「もうじき展覧会をひらくから、そ…

彫刻 13

四谷荒木町のマンションにアトリエを構えていたE氏は、知多半島出身の建築家だった(もともとは彫刻家になりたかったらしい)。 ある夜、E氏は、少々酔っぱらって来店された。そして、椅子に腰をおろすと、東京の大学にはいった頃のことを話しだした。E氏は…

彫刻 12

芸術院会員の某彫刻家にたずねた。 「彫刻になにを求めますか?」 彫刻家は、ぽつりと答えた。 「近代の超克(彫刻)」

彫刻 11

「カキツバタですよ」 写真に写っているものがなんだかわからずにじっと眺めていると、I先生はそういった。 木材の余りでこんなものを作ってみました、といってポケットから取り出した写真を見せられたときだ。 そういわれると、わけのわからない形は、花弁…

彫刻 10

4階倉庫にブロンズの固まりが放置されていた。放置といっては間違いで、箱に入れてきちんと風呂敷で包んであるのだが、どう見ても置きっぱなしだった。これは、蜜野氏(2006-09-17「ある日の昼飯」〜2006-09-24「続・田舎の道」参照)の所有物だった。 それ…

彫刻 9

I先生は、東京造形大学彫刻科の客員教授だった。東京造形大学は、八王子にある。最寄りの駅は相原駅で、そこからスクールバスが往復している。 ある年の秋、I先生から電話で相原駅まで来るようにいわれた。 約束の時間前に相原駅に着いて、駅前のロータリー…

彫刻 8

新宿区のT先生のお宅の一角には、三階建てほどの広いアトリエがあった。もちろん、天井まで吹き抜けで、大きな彫刻を制作するにはもってこいだった。 アトリエの一隅にも応接セットが据えてあり、気の置けない来客はここで面会するようだった。 その気の置け…

彫刻 7

I先生に、お弟子さんはいらっしゃるのですか、とたずねた。 「弟子は持ちません。必要なときは、大学院の学生に手伝わせています、助手として」 I先生は、眼は笑わずに、笑って答えた。 「先生の跡継ぎは、いらっしゃらないのですか?」 「いません。息子は…

彫刻 6

阪神淡路大震災のとき、神戸の魚崎にアトリエを移したばかりのI先生は、家が倒壊して閉じ込められてしまった。天井と床のあいだにできた狭い空間を、はいずって出口にむかったが、太い柱や梁がじゃまをして出られなかった。 どうしよう、とおもったとたんに…

彫刻 5

I先生が傘を買いにみえた。 フジヤ・マツムラでは、傘といったら、イギリス製のFOXしか置いてなかった(2005-01-30「20世紀FOX」参照)。 「こんどは、マラッカの柄にしようかな」(マラッカというのは籐のこと。生産地だから。籐の柄は軽くていい) I先生は…