2008-01-01から1年間の記事一覧

ネクタイ 15

高校3年のとき、文科系志望なのに、ぼくは理科系のクラスにいた。理科の試験は生物で受けるつもりだったが、理科系クラスでは物理と化学が必須科目になっていた。だから、この1年、受験勉強をしているというのに、余分な物理化学にも追っかけられて、ひどい…

ネクタイ 14

昭和50年代のはじめ、まだ、イギリス製のネクタイはずいぶん幅を利かしていた。ファッションの分野でも、大英帝国は辛うじて面目を保っていたのだ。 たいていが織りタイで、しかも渋い小紋柄が多かった。たとえば、紺地に白の織り柄で、よーく目を凝らして見…

ネクタイ 13

久野新吾(仮名)氏は、ガラガラのだみ声で、しかも大音声といった按配だったから、とても内緒話なんかできる方でなかった。板橋の金属会社のこの社長は、気取ってたって、おまえ、しょうがあんめい(仕方があるまい)、といった気っぷに満ちあふれていた。 …

ネクタイ 12

ルナアルの「博物誌」だったかに、 「蛇。長すぎる」 とあった。 そのひそみにならうと、さしずめ舶来品(この言葉はすでに死語。昭和50年代には、それでも、まだ、普通に使われていた。いまは、輸入品もしくは外国製品)のネクタイは、 「ネクタイ。長すぎ…

ネクタイ 11

綿貫君が2年のフランス生活を終えて帰国したとき、ぼくと有金君にネクタイをお土産に買ってきてくれた。 「タカシマさん、どっちがいいですか?」 1本はドミニクフランス、もう1本はダンヒルだった。 ドミニクのほうは、あの独特の重厚な織ネクタイで、値段…

ネクタイ 10-2

綿貫君が放り出した棚卸し用紙を見て、ぼくは驚いた。 ふつう、棚卸しのときは、同じメーカーの製品は「品名別」にまとめて記入する。 たとえば、ランヴァンのネクタイは、品名の欄(タイトル)に「ネクタイ」、メーカー名の欄に「フランス ランヴァン」と書…

ネクタイ 10-1

砂糖部長が綿貫君をつかまえて、なにか文句をいっていた。棚卸しの日のことである。 「なんで、こんな数字書くんだよ」 口元がへの字になって、目をギョロつかせて、いかにも意地悪そうな顔になっている。 「こんな数字って、ぼくはいつもこう書いています」…

ネクタイ 9

T汽船のT社長が、時の総理大臣について口をひらいた。 もともと、T社長は、口がわるい(というか、口に毒がある)。 T社長がなにかの試着をしたとき、脱ごうとする上着をうしろで受け取ろうとしたら、突然怒鳴られた。 「触るな!」 おもわず、剣幕に驚いて…

ネクタイ 8

某デパートで販売していたエルメスのネクタイが、じつは偽物だったと判明して、物議をかもしたことがあった。 「偽物かもしれないけれど、偽物だってわかる前はみんな本物だとおもっていたわけだし、発覚しなければ本物だったんだよね」 砂糖部長が胸のネク…

ネクタイ 7

歴代首相のご意見番、Y氏がいわれた。 「のう、タカシマくん。ドミニクフランスを知らない男がおったよ。せっかくプレゼントしたのに、西陣織りだとばかりおもっとったそうだ。きくと、うちでは家内がなんでも選びますから、というんだ。そういう男を総理大…

ネクタイ 6

「せっかくだから、ネクタイでも貰おうかな」 展示会にみえた電通のT氏がいった。展示会のときは、どなたでも1割引だから、どうせ買うなら展示会に、という方が案外多かった。 展示会は4階のホールで催された。ふだん倉庫に出し切れないでしまってある在庫商…

ネクタイ 5

昭和50年代のはじめ、まだブランド品は高嶺の花だった。ブランド品よりもなによりも、舶来品と呼ばれた輸入品を買うこと自体、一般のサラリーマンには思いもよらないことだった。 その輸入品がなんとなく身近に感じられるようになってきたのには、景気の上昇…

ネクタイ 4

吉行淳之介先生は、新しいネクタイをしてバーかキャバレーに寄ったとき、あら、素敵なネクタイねえ、とホステスに褒められると、すぐにそのネクタイを外してしまう、といった。それはホステスに対して意地悪でするのではなくて、ネクタイが目立ってしまって…

ネクタイ 3

一枚の繪の竹田厳道氏は、イタリー製のミラショーンのネクタイがお好きだった。ミラショーンには2種類あったが、竹田氏のお好きなのは、もちろん高級なダブルフェースのほうだった。 ダブルフェースというのは、ご存じのように、独特の縫製で2枚の生地を1枚…

ネクタイ 2

山口瞳先生は、幅の細いネクタイがお好きだった。だから、磯村尚徳アナウンサーに代表される、衿の幅の広いスーツが一世を風靡したときには、相当に困惑されていた。スーツの衿幅に合わせて、ネクタイが金太郎の腹掛けほどに広くなったからである。 流行とい…

ネクタイ

その人の名前は、仮に陸軍としておこう。終戦まであった陸軍士官学校の出身者だったからである。 陸軍氏は、ある日、ふらりと入ってこられた。そして、入り口のところに立っていた古村さんに、 「ネクタイを選んでください」 と、声をかけた。 見ると、手に…

女性に男物?

山口瞳先生は律義な方で、いつも世話になっている各社の担当編集者と、日頃親交のある友人たちにお中元とお歳暮を欠かさなかった。 ほとんどが男性だが、あるとき、名前に「子」がつく方が2名になった。 お一方は、山口先生かかりつけの荻窪の病院の女医さん…

ゴムの木 最終章

商船三井を辞めて1週間後、ぼくは面接を受けるために、日経新聞社にいました。以前、フェリー部でいっしょになった石井さんが、アルバイトに困ったら行ってみるといいよ、と教えてくれたことがあったからです。 石井さんは、東京芸術大学の大学院生でしたが…

ゴムの木 17

昭和52年2月20日朝、大松さんは逝去されました。最後の肩書きは、代表取締役・専務取締役とあります。 数年前から、オイルショックが日本中を席巻していました。商船三井の京橋支社も、それと無縁ではいられませんでした。嘱託やアルバイトは、次々に会社を…

ゴムの木 16

ぼくは、フェリー部の一員として、3年間過ごしました。大松さんのすすめもあって、ゆくゆくは正社員になってもいいとおもうようになっていました。その分、あれほど身近だった奄美大島の図書館は、しだいにぼくから遠のいていき、シジミほどの大きさで南の海…

ゴムの木 15

社報には、きみは好きなものを載せていい、といわれていたので、「男たち パブ」と題するショート・ショートのようなものを寄せたこともありました。 ♪♪♪ー酒がすきかって...嫌いだね。飲まずにすませられたらって、おれはいつもおもっているよ、と彼はいっ…

ゴムの木 14

大松さんに詩らしくない詩といわれたのは、「原住民のうた」と題する、まさしく詩らしくないものでした。 ♪♪♪ オウムはとても長生きで 寿命はざっと百年くらい (おまえ百まで わしゃ九十九まで) なにかの本で読んだっけ * ずっと昔に知らない土地で 滅ん…

ゴムの木 13

「それで、結局、きみはなにを得たのかな?」 キャラメルの黄色い箱をもてあそびながら、大松さんがききました。 「自分で本棚を埋めたくなりました」 「自分の本棚を、ってことかな?」 「そうではなくて、みんなの読む本棚です。自分の本棚は、自分の好き…

ゴムの木 12

「それから、どうしたんだね?」 大松さんが、キャラメルを頬張りながら、ききました。オーソンウエルズのような、いたずらっぽい眼が笑っています。 「それから、ぼくは街を歩くようになりました」 「街を、どうしたって?」 「街を歩いたんです。ええ、毎…

ゴムの木 11

小山が、何杯めかの水を飲みました。 「それで、大学やめる気なんか?」 「それはないな。せっかく入ったんだから、十分活用して、ゆっくりと考える時間にしたいとおもう」 「もう一度きくけど、就職は?」 「そりゃあ、働かなくちゃあ。でも、きみたちが一…

ゴムの木 10

ぼくがどうかしてしまったとしたら、それは大学に入学する前の話でした。北杜夫が父斉藤茂吉に「宗吉はなんたることか、馬鹿になってしまった」(そうきちは、北杜夫の本名)と手紙で嘆かせたように、前年秋の高校の文化祭に顔を出したとき、担任だった小嶋…

ゴムの木 9

英語劇研究部の部室を出ると、小山は黙って歩いて行きます。ぼくも黙ったままついて行きました。校門を抜けて、しばらく歩くと、駅前に続く商店街に出ました。彼は、ちらっとぼくをふり返ると、1軒の喫茶店のドアを押しました。 タバコの煙りが立ちこめてい…

ゴムの木 8

その年の正月に、小山は岡野と二人で、武蔵小杉駅前の喫茶店レイロー(漢字で書けば、玲瓏なのでしょうね、きっと)にぼくを呼び出しました(註、小山と岡野については、2007-04-08「市川さんの話 6 (でもほぼ余談)」参照)。この日のことを、ぼくはずっと…

ゴムの木 7

「きみは、ぼくが来る前にも、正社員になるようにすすめられたことがあったそうだが、どうして断ったのかな?」 大松さんが、ぼくの隣りの席に腰をおろして、口をひらきました。 「気がすすみませんでした」 ぼくは正直にいいました。 「気がすすまないから…

ゴムの木 6

大松さんは、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業しました。貧乏でとても学業を続けていく余裕などなかったのだけれど、恩師や同級生の援助があって(学資を出してくれたそうです)、家庭教師をかけもちしてやっとのことで卒業できた、と大松さんはいいまし…